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近藤一弥

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Interview (10)

近藤一弥 Kazuya Kondo

紙一重のデザイン グラフィックデザイン業界だと僕、鬼っ子あつかいされてるみたいですよ。
そもそもデザイン業界でエディトリアル系の人はちょっと
別物としてあつかわれちゃうじゃない

各界で活躍する桑沢デザイン研究所の卒業生を訪問する「AMALGAM(アマルガム)」、連載10回目にご登場いただくのはグラフィックデザイナーの近藤一弥さん。文学、批評、コンテンポラリーなダンスや音楽などの分野を問わず、先鋭的な表現の、核心部分はそのままに鮮やかに視覚化する作品の数々には流行や時代の波にたやすく呑まれない力強さをおぼえます。編集や批評など、隣り合う領域への深い洞察に基づく近藤さんのスタイルはいかにして生まれ、現在にいたったのか。幼少期にはじまる足跡をひもとくインタビューはさながら、1960年代以降のカルチャーの歩みを辿り直すかのようでもありました。一部、撮影をご担当いただいた松本弦人さんにもご参加いただいております。

Contents

鬼っ子の誕生

──近藤さんが桑沢に入学されたのが1982年、セゾン文化を中心に渋谷がもりあがった時期でした。

近藤 渋谷は時代に左右される街だと思うんです。僕が入学したのは、渋谷パルコで《日本グラフィック》展がはじまったころ。1回目は吉祥寺パルコが会場だったけど、それ以降は渋谷だったんじゃないかな。当時は学校周辺の喫茶店に寄って、パルコに寄ってというのがほとんど日課でした。あとはCVSですね。当時、学校から公園通りを下って左側にあったんですよ。結構いいものが置いてありました。あそこに(といって部屋の一隅を示す)23Envelopeの4ADカレンダーがありますが、そんなものも普通に売っていました。学校には一応行くんですけど、必ずまわりのどこかに遊びに行っていました。

──この連載にご登場いただく方は授業にあまり出なかったとおっしゃるパターンが多いです。

近藤 きっと学生同士、友だちとなにかやっているのが楽しかったんですよ。授業で記憶に残っているのは米谷誠一先生。米谷さんはたしか、ウルム造形大に行ってらしたんじゃないかな。バウハウスの系譜にある桑沢でウルムだったからか教え方が独特でした。無口な方だったけど、僕は面白かった。BMWの真っ赤なバイクかなんかで登校してきて、コラージュの授業をするんですけど、良いも悪いも言葉ではあまり説明しないんです。それと、写真(の授業)は面白かったですね、桑沢はもともと石元泰博大辻清司の系譜ですから。それなりに機材も充実していたし、暗室もあってよかった。

──学校の施設、渋谷という街も学生生活の一部だったんですね。

近藤 原宿セントラルアパートのほうに行くと、先輩にあたる戸田ツトムさんが当時出していた「メディア・インフォメーション」の雑誌やカードが置いてあるショップがあって、あとリバーサルのフイルムの現像をすぐにやってくれるお店があって、課題で撮影したフイルムをもちこんだりしていました。その店はE-6処理が3時間ぐらいで速かったから助かりましたよ。

──これも取材したみなさん声をそろえておっしゃいますが、課題は大変だったんじゃないですか。

近藤 大変でした。実際の仕事では締め切りが同時に来たりするじゃないですか。その状態を授業で作り出すということをやっていたんじゃないかと思いますけどね。

──結果的に鍛えられたということですね。

近藤 そうですね、自分ではわからないですけどね。理不尽だと思いましたよ。でも普通に現場を再現しようとしているんだなとも思いました。

──近藤さんは成城大学を卒業後に桑沢に入学されています。経歴をふまえると目的意識をもって入学されたとお見受けします。

近藤 じつは僕、最初はクリティックをめざしていたんです。宮川淳ってわかります?じつは高校のときから宮川ゼミに行こうと思っていたんですよ。

──宮川淳さんは東大でしたっけ?

近藤 東大だと思われているんですけど、彼は成城で教えていたんですね。成城の文芸学部の助教授(当時)でゼミは成城にありました。エスカレーター校だったので、高校の途中で専攻を決めなきゃいけない。そこでこのまま大学に進もう、宮川先生のゼミに行こう──と思っていたんですが、僕が入学する前に急逝されちゃったんですね。

──それは残念ですね。

近藤 もともと批評に興味を持っていたのですが、大学受験がないのをいいことに、それこそ「ユリイカ」や「現代思想」、「エピステーメー」のようなものを読んで、いまでいう大学生的なことを高校生のときに謳歌していたんです。

──早熟ですね。

近藤 まわりにもそういう人はいましたよ。

──生活環境の面ではいかがでしょう。近藤さんのお父さま近藤弘明さんは日本画家です。そのことで文化にふれるきっかけが多かったですか。

近藤 僕はハンス・ベルメールが好きなんですね。というのは小学生のときに「みづゑ」という雑誌に父の特集が載ったんです。その号には、のちに澁澤龍彦の『幻想の彼方へ』に編まれることになる連載のベルメールの特集がありました。なぜか僕は父よりも同じ号に載っていたベルメールに惹かれた(笑)。とにかく線がきれいだったんです。それが小学3年生くらいだったかなあ。あとはその頃、《日本国際美術展》や《現代日本美術展》という展覧会が交互に開かれていて《人間と物質》展(1970年)の直前まで日本の美術界では、問題をかかえながらもそれなりに権威をもっていました。父は日本画家なんですけど、そこにずっと招待で出品していたんです。当時は日本画家も現代美術の作家もみんな同じように出していて、家では毎年150号くらいの大作を制作する一大イベントでした。僕は一人っ子なので、留守に家に置いておけないじゃないですか。結果的に美術館とかギャラリーとか、親に連れまわされていました。原体験が《現代展》で、それが小学校に上がるくらい(笑)。いま言ってもみなさん信じてもらえないけど、《国際展》なんて上野の都美館にお客さんが列をなしていましたからね。記憶に残っているのはジャン・ティンゲリーの作品。子どもだから大人の頭越しに観るんだけど、大きな作品が本当に動いているんです。美術がさかんな時季でした。ただこうして美術の話をしていくと、テーマがそれていって、ついついデザインを否定するみたいになっちゃうんです(笑)。

 僕は東北芸術工科大学で教えていたんですが、学校ではまず「デザインとはなんでしょうね」みたいな話になる。だいたいみんな「デザインっていうのはある目的を達成するための計画で」とかなんとかいうじゃないですか。それは僕の考えていることとは違うんです。デザインを計画どおりにしても面白いものができるわけがない、と思っちゃうんですよ。その点では方法論がまったく違うというか。

松本 日本のデザインは絵画の延長にあると思っていて、構造や設計からのデザインと、絵画的に捉えてるデザインは、ずいぶん違いますよね。80年代以前は絵画的なデザインが圧倒的に多くて、90年以降つまりDTPの台頭とともに構造や設計が重視されたように感じます。仲條(正義)さん、奥村(靫正)さん、井上(嗣也)さんといった「絵的なデザイナー」が強烈でした。

近藤 実際に活躍している人もそうだったかもしれないですよね。

松本 僕が桑沢に通ってたとき、嗣也さんがパルコやギャルソンをやってて、もはや「渋谷のアートディレクター」って感じでした。

──それこそ西武関係の仕事が広告やグラフィックの分野にはたした役割は大きいですよね。

近藤 大きいと思う。ただ僕はなんの恩恵もこうむらなかった。

──そうなんですか!?

近藤 僕はもともと、広告には縁がないんですよ。美術とか文学とか文化関係は興味があったのでいろいろ取り組んでいたんだけど、コマーシャルな仕事はツテもなくってよくわからなかった。だからデザイナーじゃないんだよね、きっと。グラフィックデザイン業界だと僕、鬼っ子あつかいされているみたいですよ。そもそもデザイン業界でエディトリアル系の人はちょっと別物としてあつかわれちゃうんじゃない。

アートへのデザインのアプローチ

──鬼っ子というのは必ずしもネガティブな意味合いだけではないと思いますが、そんな近藤さんの足跡をさきほどの宮川淳さんのお話の続きから教えてください。

近藤 大学では、宮川さんと仲のよかった映画美学の浅沼圭司さんのもとで学びました。当時クリスチャン・メッツという人が映画記号学というのを提唱していたんですね。デリダ、ドゥルーズの流れを引いたところで、浅沼先生もそういうことを専門としていらしたんです。浅沼先生は一時は蓮實重彦さんのライバルとも目されるような方でした。また、いまでもそうですけど、当時から僕は萩原朔美さんのような方にも影響を受けて、8ミリで映像作品も撮っていたので、映像も撮るし映画も観るし──といったような感じでした。

──批評と実作が結びついているところはヌーベルバーグみたいですね。

近藤 あまり大きな声では言えないんですが、画家のところにいるとわかるんですけど、たとえば絵画についても、批評家はいろんな解釈をするわけですが、作者にしてみれば、単に絵の具の都合だったりする(笑)。批評ではなぜかそういった技法的な問題を落としがちというか。あまりそれをいっちゃうと評論の立つ瀬がなくなっちゃうんだけど、そういうところもあって、立ち位置の中途半端な僕は、クリティックに限界を感じていたんですね。宮川さんはそうじゃなくて、〈引用の織物〉として実際に引用だけで作家に近づいたんです。そこにも限界はあったんでしょうけど、作家的な手法を進めていくことによってそこが紙一重になっていく、純化していく。そうすると書くものがなくなっちゃう。当時はそこに憧れていたんです。いわゆる学究的な意味での研究には限界があるんじゃないかと思うんですよ。芸術批評を純化していったら作品をつくるしかなくなっちゃう。でもそんなことは言えないじゃないですか。

──アンビバレントなお話だと思います。

近藤 たとえば作家でいうと僕は安部公房をリスペクトしているんです。実際に全集をデザインするあたりから裏方のような仕事もやっていたんですね。

『安部公房全集』全30巻(新潮社)

──新潮社の安部公房の全集は1997年に刊行がはじまり2009年の第30巻で完結しました。

近藤 予定より長くかかっちゃいました。

──全集のとっかかりはなんだったんですか。

近藤 文庫の装幀を頼まれたんです。『飛ぶ男』でした。結局それはそのときは出なくて、文庫本の最後としてつい最近(新潮文庫版の刊行は2024年)出ました。

──『飛ぶ男』は遺作というか遺稿というか、そのような感じの作品だと報道で知りました。そのお話はもともとあったんですか。

近藤 そうですね。その頃、ウィルデンスタイン東京で安部公房の写真展をやったんですよ(《安部公房写真展 Kobo Abe as Photographer》1996年10月26日〜11月29日)。そのカタログのデザインをしました。それがもとで文庫を依頼され、ちょうど全集の刊行がはじまる前だったので、全集もデザインすることになったんです。あのころは僕、美術関係の仕事をけっこうやっていました。

──ケージの没後しばらくして水戸芸術館で開催した《ジョン・ケージのローリーホーリーオーバー・サーカス》(1994年11月3日〜1995年2月26日)はよく憶えています。

近藤 やりましたね(笑)。ケージの存命中だとなかなか実現できそうもない企画でした。あれはMOCA(ロサンゼルス現代美術館)の展覧会の巡回なんです。MOCAから水戸にまわると決まっていて、チャンスオペレーションで展示作品や展示場所が変わると謳ったけど、そこまでではなかった。部屋は入れ替えたりしてはいたけど、本気でやろうとしたら大変だったと思う。

《ジョン・ケージのローリーホーリーオーバー・サーカス》ポスター、1994年

──私は当時学生で、仙台から水戸へ遠征しましたが、近藤さんが同展のアートディレクションをされていたとぞんじあげたのはかなり後でした。

近藤 ロクス・ソルスというレーベルわかりますか。

──落合にありましたよね。レコメン系を出している。

近藤 そうそう、そこに渡邊(宏次)さんという方がいて、僕は当時吉祥寺に事務所があって、まあ、ご近所だったんですよ。彼がレーベルを立ち上げたころかな。それでいろいろケージの資料を借りたりしながら、デザインしたんですね。当時、彼は自力でクリス・カトラーとフレッド・フリスを呼んでコンサートを制作したりしていました。ディス・ヒートのチャールズ・ヘイワードも呼んでいました。

──渡邊さんとはどのようなご縁だったんですか。

近藤 彼は水戸芸術館にナディフが出していたコントルポアン(Contrepoint)というお店の店長さんだったんです。僕が水戸芸にかかわりはじめたころはもうやめていたのかな。とにかく吉祥寺に住んでいるからということで紹介されて、ときどきデザインを手伝ったりしていたんですね。

雑誌文化の実りと現在

──近藤さんも90年代なかばにご自分の事務所を構えておられます。

近藤 あのころってバブルが弾けた直後ぐらいでまだ仕事があったんですよ。

──美術関係の仕事ですか?

近藤 美術関係が多かったかなあ。あとはダンス、コンテンポラリーダンスかな。

 ちょっとさっき話が抜けちゃったんですけど、僕がデザインのほうに行こうと思ったのは、エディトリアルをやりたいと思ったからなんです。「パイデイア」という雑誌があったんですね。「パイデイア」については僕は後追いなんですが、安原顯さんが編集していた時代があって、その後が中野幹隆さんの編集なんです。中野さんが編集長だった時代の「パイデイア」にミシェル・フーコーの特集号(「パイデイア」11号、1972年刊)があったんですね。そのデザインがすごくいいんです。杉浦康平さんが当時心血を注いだ号なんですね。それを大学の研究室で見つけてショックを受けた。もしかしたら僕は内容、読むことよりこっち(デザイン)に興味があったのかもと思ったんです。もちろん、杉浦康平さんデザインの「エピステーメー」は高校時代から買い集めていてすごい、とは思っていましたが、あらためてエディトリアル、グラフィックデザインが仕事になるということを認識するきっかけになりました。また他方、内容的には三浦雅士さんですね。原稿はね、やっぱり「ユリイカ」や「現代思想」の編集後記が好きでした。

1975年に創刊した「エピステーメー」(朝日出版社)と創刊準備号の中面

──近藤さんと三浦さんは長いおつきあいですよね。

近藤 僕は、勝手に師匠だと思っていますけど。ちょうどいま前橋文学館で開催中の《夢の明るい鏡──三浦雅士と1970年代の輝き:「ユリイカ」「現代思想」の軌跡》(会期: 2025年10月04日〜2026年01月25日)という展覧会の仕事をしています。いまは三浦さんは文芸評論家という枠組みで語られることが多いですが、その思想は最新の脳科学との関係で人間や芸術を捉え直すなど、いまなおとても刺激的です。

──私はどうしても「ユリイカ」や「現代思想」の編集長をつとめられた方という認識ですけどね。

近藤 ただそういった雑誌にたいする思い入れも、世代が下がっていくにつれて、あまりないかもしれないですよね。雑誌はいまもあるけど。かつてはそうだったんですね──くらいのスタンスで。たとえばこうして「宮川淳さんがね」といっても話自体がもう過去の別次元の出来事になっている。カルチャーといっても、「いわゆるサブカル」は更新されているものがあるのかもしれないけど、メインのカルチャーものに関してはすごく断絶していると思う。

──横断的な志向や考え方も稀少になりました。昨今の美術批評をする方にとって音楽は批評の対象はおろか参照項にもあがらない気がします。

近藤 ジョン・ホイットニーの曼荼羅的な部分とテリー・ライリーの音楽がすごく合うんだよね、といって学校の授業とかでは生徒たちにがんがんにみせるんだけど、そういうことがいまないということですよね。

──専門性が細分化しているのと、そこから逸れる言説を忌避する傾向があるのではないでしょうか。

近藤 でもいまはネットがあるから、とりあえず浅く知るには全然楽じゃないですか。浅いという言い方は誤解を招くかもしれないけど、たとえ浅くても、それをきっかけに他のものとくっつけたり、発見したりすることが面白いと思うんですけどね。

──いま近藤さんがおっしゃったような視点、これとこれを並べることで関係性を浮き彫りにするのは編集の仕事でもあると思うんですね。

近藤 そうだ。僕、編集者にもずっと憧れていたんですよ(笑)!

──「ユリイカ」や「現代思想」はまだがんばっていますが、私がかつて在籍した「スタジオ・ボイス」のようなテーマを設けた特集主義による雑誌づくりは成り立たなくなったのだと思います。

近藤 「マリ・クレール」だって一時期、安原顯さんがやっていたんだものね。

松本 そのころ、僕、デザインをやってましたよ(笑)。

近藤 そうなんだ! 女性誌なのにすごい特集をするんだよね。僕は安原顯さんにはお目にかかったことはないんだけど(笑)。

松本 野生のコアラみたいでした(笑)。

近藤 でも結果として面白いことやっているじゃないですか。その前の「海」もそうじゃない? あのころの雑誌はすごいですよね。

100年の安部公房

──安部公房さんは2024年に生誕100年を迎えました。記念企画をいろいろ開催されていましたよね。

近藤 一連の企画に関わらせていただきました。本当の最終目標は安部公房の記念館のようなものをつくることだったんですが、それはちょっと難しかった。

──安部公房は写真も撮るし演劇もやるし、詩も批評も、もちろん小説もある。多岐にわたる活動領域を把握するだけでも大変ですよね。

近藤 まあ、演劇界からは無視されていましたけどね。最近は意識的に言うようにしているんですけど、僕は当時、寺山修司の舞台にも興味を持っていました。とくに後期の『奴婢訓』、『レミング』あたりが大好きでリアルタイムで観ていました。もちろん安部公房の演劇も好きで、後期安部スタジオになってからはほとんど観ています。でも三浦(雅士)さんによると、そういうふうに両方を観ている人はあまりいないのではないかと。アンダーグラウンドな演劇の文脈からみると、安部スタのはじまりは俳優座の流れなので、その意味であまり相手にされず、観られなかったそうです。

 これは僕の考えなんですけど、『箱男』が安部公房の小説の究極だとすると、あの作品ができたのは、ちょうどその頃、安部さんが安部スタジオで演劇の方法を模索したことが大きいのではないかと。安部スタの演劇のメソッドは安部システムというんですが、フランスのジャック・ルコックという舞台演出家が提唱したメソッドに近いんです。いまのコンテンポラリーダンスなどに取り入れられている、身体をニュートラルにしながら、空間と一体化させていくような、いわゆるワークショップ形式に近い作り方なんです。当時、安部さんはそんな感じで台本のない演劇をつくりはじめた。同時に、小説家としての彼はもともと原稿をものすごく書き直す人だった。そのため途中からいち早くワープロを使うようになったんだけど、この当時の原稿の書き方も、かなり意識的にひとりワークショップみたいな感じで行われたのではないか。それが『箱男』成立につながっていくと。

──過去の自分との対話ですね。

近藤 俳優座で千田是也さん演出でやっていた段階では、戯曲はあくまで戯曲として、いわゆる演劇の範疇でやっていたけど、それでは満足できなかったんでしょう。それで自分なりの演出方法でいくことになって、役者もフィジカル自体からつくっていく。フィジカルをつくることで、演者のフィジカルと思考とのバランスのなかで作品ができていく、それがワークショップということだと思うんですけど、安部公房はそういうことをすでに70年代半ばからやりはじめるんです。そのような方法論に日本で先駆的に取り組んだのは安部公房なんですね。

──『箱男』といえば、2024年には石井岳龍さんが監督をされた映画『箱男』も公開しました。

近藤 あの映画の中のタイトルデザイン、僕のところでつくっているんですよ、キネカリグラフィで。アバンタイトルに安部公房のオリジナル写真を入れたのもそうです。石井さんの映画については、安部さんが80年代半ばに『逆噴射家族』(1984年公開)やノイバウテンの『半分人間』(1986年)のMVを観て、この人ならとOKしたそうです。その後1997年、クランクイン直前までいって実現しなかった。脚本の面で齟齬があったようですけど、そのときの『箱男』については時期に恵まれなかったのかもしれないですね。

──石井さんの『箱男』は新しい観客や読者へ安部公房という存在を伝える大きなきっかけだったと思います。

近藤 そう思います。それもあって著作権者である娘さん(安部ねり氏)が亡くなる寸前にOKを出して、僕が一時的にその後を引き継ぐかたちになったんです。僕にはさっきいったような野望があったからなんですが……。でも安部公房、最近、以前より多く見るような気がしません?

──名前を耳にする機会が格段に増えましたよね。

近藤 版元に行って、生誕100周年ですよ、と伝えましたから。写真集も出しましたし、『死に急ぐ鯨たち・もぐら日記』という文庫本を再版して、新シリーズ(カバー写真:安部公房)の文庫のデザインもひとまず完結しました。

──近藤さんが手がけられた安部公房全集(新潮社)も、文学全集としては大胆な構成とアートディレクションでしたね。

近藤 当時は関係各所からお叱りも受けましたが、あれは安部ねりさんが、ああいうものをつくりたいとずっとおっしゃっていたものなんですね。ただ、ねりさんが言葉でいくら話してもなかなか実現しなかったんだけど、デザイナーは形にできるから、それならこうなりますよと見せると説得できるじゃないですか。僕は美術が専門だったということもあるんですけど、美術ではカタログレゾネ的なものが多いんですよね。音楽もそうかもしれない。バッハの作品番号順に全作を収めるとかね。美術や音楽ではよくあることなんだけど、文学ではやらない。だから文学も1から順に番号をつければいいんじゃないかと思ったんですよね。

──それで、詩や戯曲やエッセイや評論や小説といったジャンルを解体して執筆年の順に収める方式の全集になったんですね。

近藤 あと、これはあんまりいったことないんだけど、じつは僕、ファクトリーにけっこう憧れがあって。

──ファクトリーというのは音楽レーベルの?

近藤 そう、ファクトリー・レコード

──ジョイ・ディヴィジョンの。

近藤 あれも全部順番じゃないですか?

──たしかに。訴訟とか社屋にも番号を振っていました。でも近藤さんがファクトリーというと納得です。音楽にかんしてはケージのような実験音楽一辺倒ではなかったということですね。

近藤 むしろ僕はロックですよ。それこそ70年代のブライアン・イーノあたりですね。僕にとってはロキシー・ミュージックがデビューした72年ぐらいが一番ロックアルバムで好きなものが多い時期なんですよ。もちろんその前の時代も好きですよ。トニー・ヴィスコンティがかかわると音がいいとか、そんなふうに当時、中学時代に考えるのが好きでした(笑)。その後、一時期聴くものがなくなっちゃって、世の中ではパンクといわれている一方で、真面目に聴こうと思うとそれこそヘンリー・カウとかレコメンデッド・レーベル系のものとか、そのへんしか聴けるものはないみたいな感覚に陥ったんですが、ジョイ・ディヴィジョンが出てきて、ああよかったと(笑)。デザインとも連動しているし。

──ピーター・サヴィルですね。お好きですか。

近藤 大好き──なんですけど、『サブスタンス』というジョイ・ディヴィジョンのジャケットに、尖った円錐形のビジュアルがあるんですが、あれって、ピーター・サヴィルがオランダの彫刻家の作品をもとにデザインしたものなんです。そのことを知って、面白いからとそれについて以前「ブレーン」という雑誌に、延々書いたんだけど、誰からも一言も反響はなかったですね(笑)。

──音楽や文学といったカルチャー的な動きと連動してご自分のデザインは変わっていったと思いますか。

近藤 あるときから僕はあまり変わらなくなっちゃったと思う。以前は自分が好きだと思えることと、カルチャー的な動きが連動していたから、それに任せてつくっていればよかったんですけど、途中から時代自体が、いわゆる脱構築的な自己解体そのものを目的にするような感じになって、そのことが繰り返されるようになってから変わらなくなりました。

──ご自分の作風が完成した、ということではなく。

近藤 完成なんてことはないと思いますけど。たとえば作家によっていろんなタイプの方がいますよね。それこそ音楽で考えるとわかりやすいんですけど。変わっていくことのなかに推進力を求める人もいるし……。それはわかるんだけど、変えなきゃよかったのに、と思うこともある(笑)。もうちょっとこのまま続けてくれたら、もっと聴けたのに、と思うことも多くて。

紙一枚分の隔たり

──そのような現状を背景において、今後のお仕事の展望についてお聞かせください。

近藤 いまは前橋文学館で開催している《夢の明るい鏡──三浦雅士と1970年代の輝き》用の映像作品を作っています。僕の中ではデザインの仕事をすることと、作品を制作をすることとをあまり分けて考えてはいないんです、ビジネス面は別としてね(笑)。できれば、このようにあまりまわりを気にせず制作を続けられるといいのですが。

2025年10月04日〜 2026年01月25日、前橋文学館で開催した《夢の明るい鏡──三浦雅士と1970年代の輝き:「ユリイカ」 「現代思想」の軌跡》のために近藤氏が制作した映像作品の一部

──三浦さんが現在も第一線で活動されていることは近藤さんにとってもひとつの支えみたいなところがあるのでしょうか。

近藤 三浦さんにはお世話になっていることもいろいろありますから。2024年の神奈川近代文学館での《生誕100年 安部公房 21世紀文学の基軸》展でも監修していただきました。三浦さんに関して、ヘンな言い方ですが僕はオタクなんです。『考える身体』という本があるんですけど、それ以降10冊ぐらい続けて装幀しているんです。そのこともあって、僕は末端の読者としてずっと追いかけているし、ときどきお会いしてお話を直接うかがったりするので、たぶん僕は三浦さんについてはかなり詳しいほうですよ。

三浦雅士『考える身体』(NNT出版 / 1999年)、右はカバー裏面

──『考える身体』はミレニアムのころですね。

近藤 あれ、NTT出版なんですよね。

──『考える身体』ではコレオグラフィ、舞踏譜をモチーフに装幀されていましたよね。

近藤 あれには背景があって、ウィリアム・フォーサイスがダニエル・ラリューという振付家とコラボレーションしたダンス公演のデザインを僕が担当したとき、フォーサイスからジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロという18世紀のイタリアの画家の素描の動きを想像した線を描いたものが送られてきたんです。フォーサイスの「仮定された流れ」(1996年)という公演で、これがその時のコレオグラフィ(舞踊譜)になったんです。実は三浦さんの本では、その考え方を援用してデザインしたんです。カバーの裏は実際にはモーリス・ベジャールの写真なんだけど、ベジャールの写真をみながら想像した動きの線を表に表現しているんです。

──本はメディアとしては静的なものかもしれないですが、三浦さんの著書は身体論であり、それを表現するのに動きを想起するブックデザインというのは印象に残りました。

近藤 結局本は装幀だけど、物として残るから、ひとつの舞台装置みたいなものなればいいなとずっと思っているんですね。

近藤氏がデザインを担当したやくしまるえつこ「おやすみパラドックス/ジェニーはご機嫌ななめ」

──最近手掛けていらっしゃるお仕事についてお聞かせください。

近藤 いまデザインしているのは李禹煥です。彼の美術館(李禹煥美術館)が直島にあるんですけど、そこの広報物とかカタログをデザインしています。そこは、作品の展示のあり方も含めてのパーマネントコレクションなんです。だから、いわゆる展覧会カタログのような一過性のものではなく、なにか新しい見せ方がないか試行錯誤しているところです。

──李禹煥はどのような経緯で?

近藤 担当の方からの依頼です。後になってわかったことなんですが、李先生はうちの父のことをご存知だったんですよ。父より年齢が少しだけ下になるんですが、それこそ現代展、国際展の時代ですね。僕は基本的に武満徹とか安部公房とかが活躍した時代に興味があるんです。自分の父親も含めてね。最近気づいたんですが、結局それって、自分がその時代や環境の中で、それこそ偶然生まれて育ってきたということと合わせ鏡のようになっているんです。

──近藤さんが制作された『武満徹──Visions in Time』には武満さんの自宅の写真が載っていました。三浦さんが監修された安部公房の展覧会の図録の表紙でも書斎の写真をつかわれています。作家の創作の場からイメージを膨らませるということはありますか。

近藤 そうですね、僕が幼い頃住んでいた家はとても小さくて、そこのアトリエで育ったようなものなんです。作家がなにかつくっている場所が日常の遊び場で、それが原風景なんです。そのこともあって、作家がなにかをつくっている場所に、執拗な興味というか執着があるのかもしれません。

──作家と同じ視点に立ちたいということですか。

近藤 同じ視点に立つことはできないですが、イメージの立ち現れ方のなにかを体験することはできると思うんです。作家は読者とのあいだにイメージを立ち現させる。僕がデザインする課程においては、その環境のなかで作家がイメージを立ち上げた状態に身を置こうとする。できればそれをなにかに定着したい。ようするにそういった入れ子状のイメージが層になっていくわけですよ。

──そのような方法論で本づくりをやってみたいと。

近藤 できるならばね。それはおそらく自分が物質的なものに対する執着があることと関係しているかもしれない。その対象はいってしまえば、なにか特別なモノになればいいんです。ただ、それが絶対ではないですよ。僕、骨董とか苦手なんで(笑)。もちろん否定はしないですよ。ただあまりモノに執着しすぎると、今度はなにかを愛でることになっちゃう。それは芸術とか美術とは真逆のものだとも思うんですよね。紙一重ではあるけれど。

──紙一重のところにとどまりつづけたいと?

近藤 たとえば人間の思考と生死の問題をクリティックとかでは言語的に追求していくじゃないですか。一般的には「答え」を求めていく状態。一方、アートではそういうことを違うかたちで追求し続けていく──まさしくそういった状態そのものなのではないか、と考えています。

──ここまでのお話を総合すると、デザインという行為が紙一重そのものであるような気がしてきます。最後に、桑沢に進学し、デザインの道に進みたいと考える人たちにメッセージをください。

近藤 いまになって思うことなんですが、自分が少しでも気になることは気にするようにしたほうがいいということです。ちょっとした兆しとか、体調ひとつとっても、なんかちょっと調子が違うなっていうことあるじゃないですか。たとえばいつもと少し味が違って感じるとか。特に自分がつくっているものをみたり触ったりしたときに、その微妙な差分みたいなことを感じたら、それを意識していくのが大事なんじゃないかと。

 言語的、理論的な部分と身体的なフィジカルな部分──じつは身体的なフィジカルな部分は感覚とすごく近いと思うんです。感覚的な部分と言語的な部分も紙一重じゃないですか。そこの、そのどちらが先ともいえない微妙なバランスなんだと思うんですよね。やっぱりそこに目を向けたり、耳を傾けたりするようなことが大切だと思います。

(2025年11月2日、京都にて/撮影:松本弦人)

Profile
近藤一弥(こんどう・かずや)
東京生まれ。成城大学芸術学科卒業。桑沢デザイン研究所グラフィック研究科卒業。グラフィックデザイナー。1992年株式会社カズヤコンドウ設立。現代美術、音楽、コンテンポラリーダンスなど、アートに関連するポスターや書籍などのデザインを中心に幅広く活動する。斬新かつコンセプチュアルな美術展カタログデザインでは「もうひとつの展覧会」とも評される領域を展開している。また「作家の創造の軌跡」をテーマに、映像インスタレーションによる作品を発表している。主な賞歴として、東京ADC原弘賞(1998)、ブルーノグラフィックビエンナーレ・プラハタイポデザインクラブ賞(2000)、桑沢賞(2002)。東北芸術工科大学名誉教授。近年は、キネカリグラフィーの技法を使った映像作品や映画のタイトルデザイン、タイトルバック映像などに制作の幅を広げている。
セゾン文化
1985年にセゾンへと改称する西武系流通グループが牽引した文化運動。辻井喬の筆名で作家としても著名な堤清二氏が主導し、広告、劇場、美術館、書店、雑誌、ライブハウスなどを通して若者文化を育み、1980年代の東京という都市のカラーを決定づけた。
日本グラフィック展
かつてパルコが主催した公募形式の展示会。イラストレーターやフォトグラファーの発掘を目的に1980年にはじまり、日比野克彦、大竹伸朗、タナカノリユキらが輩出した。
CSV
かつて公園通り沿いにあったレコード店。正式名はCSV渋谷。CSVは「コミュニケーション、サウンド・アンド・ビジュアル」の略。ダイエー系の資本で西武系のWAVEに対抗するかのように国内外のインディ系に力を入れていた。1985年にオープンし、バンドブームが本格化した88年初頭に閉店。
23 Envelope
グラフィックデザイナーのヴォーン・オリヴァーとフォトグラファーのナイジェル・グリアソンがタッグを組み、1980年代に活動したデザインユニット。コクトー・ツインズ、デッド・カン・ダンス、ディス・モータル・コイルなど、音楽レーベル「4AD」のゴチックで耽美的なイメージづくりに大きく寄与した。
米谷誠一
(よねや・せいいち 1944〜1997)1971年に桑沢デザイン研究所に入職後、97年に他界するまで教鞭を執りつづけた日本の教育者。作品に宇都宮美術館が収蔵する〈colombier(C)〉など。
石元泰博
(いしもと・やすひろ 1921〜2012)米国生まれの日本の写真家。3歳で両親の故郷高知県へ移住し18歳で再渡米、シカゴのニューバウハウスで写真を学んだ。1953年に写真家として訪日。55年より桑沢で教鞭をとりながら、シカゴや東京といった都市をとらえたシリーズや「桂離宮」「曼荼羅」「伊勢神宮」など、多くの作品を残した。
大辻清司
(おおつじ・きよじ 1922〜2001)東京府南葛飾郡大島町(現・東京都江東区大島)の出身の写真家、教育者。1950年代、瀧口修造のもとに武満徹、秋山邦晴らと集った実験工房に参加し、写真とグラフィックの融合をはかったグラフィック集団を伊藤幸作、浜田浜雄らと結成。著書に「アサヒカメラ」の連載を編んだ『大辻清司実験室』など。教育者としては桑沢をふりだしに、東京造形大学、筑波大学でも教鞭をとり、多くの後進を育てた。
戸田ツトム
(とだ・つとむ 1951〜2020年)東京都出身のグラフィックデザイナー。桑沢デザイン研究所を経て1973年に工作舎に入社。雑誌「遊」のデザインを担当。1977年に戸田オフィスを設立。天井桟敷のポスターデザインなどを手がけ、『エリック・サティ』(リブロポート、1984年)ほかで、第16回講談社出版文化賞・ブックデザイン賞受賞。デジタルデザインに早くからとりくみ、89年にフルDTPによる『森の書物』を刊行。1993年、第1回桑沢賞受賞。
宮川淳
(みやかわ・あつし、1933〜1977)東京都出身の美術評論家。東大卒業後に入局したNHK在籍中の1963年に「アンフォルメル以後」により第4回芸術評論賞を受賞。65年の退職後に成城大学文学部講師となり、69年に助教授。70年代以降は美術、文芸批評の分野で旺盛な活動を行うも、77年肝臓がんにより死去。主な著書に『鏡・空間・イマージュ』『紙片と眼差とのあいだに』『引用の織物』など。
近藤弘明
(こんどう・こうめい 1924〜2015)東京都出身の日本画家。下谷の天台宗の家に生まれ、幼少期に父から仏画の手ほどきを受ける。1943年、東京美術学校(現・東京藝術大学)日本画科に入学、山本丘人に師事。仏教的想念に裏打ちされた幻想的な作品世界は国内外で高い評価を受けた。
ハンス・ベルメール
(Hans Bellmer 1902〜1975)ドイツ帝国(現在のポーランド領)出身の画家、人形作家。ナチ党政権下のドイツで等身大の少女の創作人形を制作したことでよく知られる。エロティックなドローイングやエッチング、シュルレアリスティックな写真作品も残した。
澁澤龍彦
(しぶさわ・たつひこ 1928〜1987)東京都出身のフランス文学者、評論家、小説家。マルキ・ド・サドの国内への主要な紹介者として、幻想文学やさまざまな異端の芸術、思想、文化に通暁した評論家として名高い。1987年刊行の遺作『高丘親王航海記』で没後、第39回読売文学賞を受けた。
人間と物質展
総コミッショナーに美術評論家の中原佑介を迎え、1970年5月の東京都美術館を皮切りに全国を巡回した展覧会の名称。正式名称は第10回日本国際美術展。もの派、コンセプチュアリズム、ミニマリズムなど、当時最先端の芸術潮流に属する美術家が国内外から40名ほど参加し、美術史の重要な転換点となった。
ジャン・ティンゲリー
(Jean Tinguely 1925〜1991)スイスの画家、彫刻家。廃物を利用した動く彫刻「キネティック・アート」の第一人者。パリ移住後、イヴ・クライン、アルマン、セザールらとのヌーヴォー・レアリスム運動に参加。代表作にバーゼル市内に設置されている『噴水の劇場』など。ヌーヴォー・レアリストの一員であったニキ・ド・サン・ファルとはのちに婚姻関係にいたった。
仲條正義
(なかじょう・まさよし 1933〜2021)東京都生まれのグラフィックデザイナー。藝大図案科卒業後、資生堂宣伝部に入社。1961年に仲條デザイン事務所を設立し、66年から2011年まで、資生堂の企業文化誌「花椿」のアートディレクターをつとめた。
井上嗣也
(いのうえ・つぐや)1947年、宮崎県生まれの日本のアートディレクター。1978年にビーンズ設立。1980年代、パルコ、サントリー、コムデギャルソンなどの広告でいち時代を築いた以降も、独創的な写真のディレクションとタイポグラフィからなるグラフィックを世に問いつづけている。
浅沼圭司
(あさぬま・けいじ)1930年、岩手県盛岡市生まれの美学者。成城大学教授、倉敷芸術科学大学教授を経て成城大学名誉教授。専攻は美学、映画理論。著書に『映画美学入門』『映画学 その基本的問題点』『ロベール・ブレッソン研究 シネマの否定』など。
デリダ、ドゥルーズ
ジャック・デリダとジル・ドゥルーズのこと。ともにポスト構造主義の系譜にあるフランスの現代思想家で、1980年代初頭のニューアカデミズムブームのアイコンでもあった。
蓮實重彦
(はすみ・しげひこ)1936年、東京都生まれのフランス文学者、映画評論家、小説家。東大を経てパリ大学大学院で博士号を取得。1974年に初の著書『批評あるいは仮死の祭典』を発表。『フーコー・ドゥルーズ・デリダ』『表層批評宣言』『シネマの記憶装置』『「ボヴァリー夫人」論』など、その射程は文学、言語、映画、思想など多岐にわたる。78年の『反=日本語論』で読売文学賞(評論・伝記部門)、2016年には小説『伯爵夫人』で三島由紀夫賞受賞。1997〜2001年に第26代東京大学総長をつとめた。
萩原朔美
(はぎわら・さくみ)詩人の萩原朔太郎、ダンサーで小説家の萩原葉子を母にもつ映像作家、演出家、エッセイスト。1946年東京生まれ。日本大学芸術学部中退後、1967年に寺山修司の演劇実験室「天井桟敷」に立ち上げより参加。在団中に映像制作をはじめ、75年には雑誌「びっくりハウス」をパルコ出版より刊行、初代編集長をつとめた。著書に『「演劇実験室・天井棧敷」の人々』『毎日が冒険』など。
ヌーベルバーグ
仏語で「新しい波」を意味する1950年代末のフランスで興った映画運動。ジャン=リュック・ゴダール、フランソワ・トリュフォー、ジャック・リヴェット、エリック・ロメール、クロード・シャブロルなど、代表的な監督の多くが映画誌「カイエ・ドゥ・シネマ」などで批評家としても活動した。
安部公房
(あべ・こうぼう 1924〜1993)東京に生まれ、満州で幼少期をすごした小説家、劇作家、演出家。東京帝国大学医学部を1948年に卒業するも医学の道へは進まず、同年『終りし道の標べに』を真善美社より刊行、作家活動に入る。1951年に「壁 - S・カルマ氏の犯罪」で芥川賞、60年代には『砂の女』『他人の顔』『燃えつきた地図』からなる失踪三部作を発表。73年に「安部公房スタジオ」を設立し、50年代より携わる演劇活動を本格的に始動。80年代の『方舟さくら丸』『カンガルー・ノート』、途絶したのち没後刊行となった『飛ぶ男』(1993年)など、死の直前まで旺盛な実験精神は衰えることはなかった。
ジョン・ケージ
(John Cage 1912〜1992)米国の作曲家。演奏者がいっさい音を出さない「4分33秒」や、弦にボルトや消しゴムを挟みこんだプリペアドピアノで演奏する「ソナタとインターリュード」、易などで使用する筮竹ですべての音を決定した「易の音楽」、ラジオや電化製品をランダムに並べ偶然生じた音を作品化する「変奏」など、革命的な作品をものした20世紀最大の音楽家。
チャンスオペレーション
1950年代初頭にジョン・ケージが考案した作曲技法。コインを投げ、音程や音価(音の長さ)を決定したり、紙についたシミを音符に見立てたりすることで、作品に偶然性を取り込み、作曲家が音楽のすべてをコントロールする西洋音楽のあり方に異議を唱えた。
ロクス・ソルス
(Locus Solus)レコメンデット・レコーズ(レコメン)が発表したレコードや、それらと親和性の高い良作を数多くリリースした日本の音楽レーベル。名称はレーモン・ルーセルの長編小説より。
クリス・カトラーとフレッド・フリス
レコメン系を代表するヘンリー・カウの中心人物。カトラーはドラマーでレコメンデッド・レコーズの創設者。ギタリストのフリスは1978年に英国から米国のニューヨークに移り、先鋭的なシーンで現在も旺盛な活動を継続している。
ディス・ヒート
後述のチャールズ・ヘイワード(ドラムス)を中心とするポストパンク・トリオ。発表したアルバムは『ディス・ヒート』(1979年)、『ディシート』(1981年)の2枚のみだが、パンク以後に誕生した先鋭的なロックサウンドを代表するレコードとみなされている。
パイデイア
1968〜1973年に竹内書店が刊行した総合雑誌。ヌーボーロマンや現代思想などを中心に先鋭的な誌面づくりで話題を呼んだ。正式名は「季刊パイデイア」。
安原顯
(やすはら・けん 1939〜2003)後述の文芸誌「海」、女性誌「マリ・クレール」(ともに中央公論)などで辣腕をふるった編集者。ヌーボーロマンや現代思想の紹介者として、多くの作家を世に出した名伯楽として名高いが、豪快なキャラクターに由来する逸話にも事欠かない、自称「スーパーエディター」。「パイデイア」では4〜6号の編集を担当。
中野幹隆
(なかの・みきたか 1943〜2007)長野県出身の編集者。「日本読書新聞」編集長を経て、竹内書店で「パイデイア」のフーコー特集号の編集を担当。退社後は三浦雅士とともに青土社で「現代思想」を創刊。75年には朝日出版社に移り「エピステーメー」を刊行した。伊丹十三を責任編集に招いた「モノンクル」、書き下ろしによる教養叢書「週刊本」など、のちの人文系出版のロールモデルとなった仕事も少なくない。
杉浦康平
(すぎうら・こうへい)1932年、東京都生まれのグラフィックデザイナー。東京藝術大学建築科卒業後、髙島屋宣伝部に入社するも、同時期に制作した「LP JACKET」が1956年第6回日宣美賞を受賞し、半年で独立。1950年代後半から現在にいたるまで、ポスター、レコードジャケット、雑誌、書籍などの各分野で独創的な活動を展開している。おもな作品に『武満徹の音楽』シリーズのレコードジャケット、「SD」「パイデイア」「エピステーメー」などの雑誌デザイン、埴谷雄高『闇の中の黒い馬』、『セリーヌの作品』(全15巻)などの書籍群がある。著書に松岡正剛との『ヴィジュアルコミュニケーション』など。
三浦雅士
(みうら・まさし)1946年、青森県弘前市出身の編集者、文芸評論家、舞踊研究者。1969年の創業とともに青土社に入社し、「ユリイカ」「現代思想」の編集長をつとめる。1984年『メランコリーの水脈』でサントリー学芸賞。1991年、新書館取締役に就任後「ダンスマガジン」を創刊。その後も『身体の零度』や『考える身体』、『青春の終焉』『出生の秘密』『孤独の発明』からなる評論三部作など、総合的な批評活動を実践している。
ジョン・ホイットニー
(John Whitney 1917〜1995)スタンリー・キューブリックの『2001年宇宙の旅』(1968)のスターゲートのシーンで有名なカリフォルニア州出身の映像作家。コンピューターの演算処理による幾何学的な意匠を用いたアニメーションの先駆者のひとり。
テリー・ライリー
(Terry Riley)1935年、カリフォルニア州生まれの作曲家。特定の音型を反復するミニマルミュージックの創始者のひとりで、C(ドの音)の音列からなる53のフレーズを演奏者が任意の回数くりかえす楽曲「In C」はこの分野を代表する一作となった。ほかの作品に「ミュージック・フォー・ザ・ギフト」「ア・レインボウ・イン・カーヴド・エア」「キーボード・スタディ」「サン・リングス」など。2020年より日本在住。2025年に90歳を迎えた以降も積極的に作曲、ライブ活動を行っている。
俳優座
歌舞伎などの旧劇、明治期の壮士芝居の流れをくむ新派などの商業演劇とも異なる芸術性の高さをうたい、1994年に青山杉作、後述の千田是也、初代『水戸黄門』役の東野英治郎らがたちあげた劇団名。田中邦衛、大山のぶ代、原田芳雄など、多くの俳優がここから巣立った。
ジャック・ルコック
(Jacques Lecoq 1921〜1999)フランスの舞台俳優、演技・身体表現の指導者。マスク(仮面)を使用し、身体表現を段階的に積み上げる指導法はとりわけ有名。
千田是也
(せんだ・これや 1904〜1994)ドイツへの演劇留学を経て、プロレタリア演劇の指導的役割を担った演出家にして俳優。1944年に東野英治郎、小沢栄太郎らと俳優座を立ち上げ、50年代以降は「どれい狩り」「幽霊はここにいる」など、安部公房作品もとりあげている。
石井岳龍
(いしい・がくりゅう)1957年生まれ。10代最後の年に8ミリで撮った1976年の自主映画『高校大パニック』が話題となり、1980年の長編『狂い咲きサンダーロード』でインディーズ映画の旗手となった福岡県出身の映画監督。ほかの作品に、陣内孝則、ルースターズの大江慎也、INUの町田町蔵(現・町田康)、泉谷しげるなど、ミュージシャンを多数起用した『爆裂都市 BURST CITY』、今年1月に逝去した長谷川和彦が代表をつとめたディレクターズ・カンパニー制作の『逆噴射家族』、地元福岡が舞台の『水の中の八月』、SF時代劇『五条霊戦記 GOJOE』など多数。2010年までは石井聰亙(いしい・そうご)の名前で活動していた。
ファクトリー・レコード
セックス・ピストルズが解散した1978年に英国マンチェスターでトニー・ウィルソンが立ち上げた音楽レーベル。初期のマーティン・ハネットのプロデュース、ピーター・サヴィルのデザインによりレーベルカラーを確立。1992年に破産するまで、ジョイ・ディヴィジョン〜ニュー・オーダー、ハッピー・マンデイズ、ドゥルッティ・コラムなどの作品をリリースした。運営したクラブ「ハシエンダ」はマッドチェスターと呼ばれるムーブメントの中心地となった。
ブライアン・イーノ
(Brian Eno)1948年、英国出身の音楽プロデューサー、音楽家。ロキシー・ミュージックのメンバーとしてシーンを席巻したのち、ソロ活動に転じ、デヴィッド・ボウイの『ロウ』『ヒーローズ』『ロジャー』(ベルリン三部作)、ノーウェイブ系オムニバス『ノー・ニューヨーク』などをプロデュース。1979年の『ミュージック・フォー・エアポーツ』で「アンビエント・ミュージック(環境音楽)」を提唱するとともに「オブスキュア・レコーズ」から多くの重要作を世に問うた。
トニー・ヴィスコンティ
(Tony Visconti)1948年、米国生まれながら68年のロンドン移住後、Tレックス、シン・リジィ、ムーディ・ブルース、ジェントル・ジャイアントなど、英国ロックの重要作を多数手がけた音楽プロデューサー。なかでもデヴィッド・ボウイの実質的なデビュー作『スペース・オディティ』(1969年)と2016年の遺作『★(ブラックスター)』に携わった点は特筆に値する。
ピーター・サヴィル
(Peter Saville)1955年、英国マンチェスター出身のグラフィックデザイナー。ファクトリー・レコーズの諸作で見せた抑制的で緊張感あふれるデザインは後代に大きな影響を与えた。ジョイ・ディヴィジョン『アンノウン・プレジャー』のカバーはいまなお人々の口の端にのぼるサヴィルの代表作だが、大元の図版はバンドメンバーのバーナード・サムナーがマンチェスター中央図書館の天文学事典から見つけてきたパルサー(中性子星)の観測データなのだという。
ウィリアム・フォーサイス
(William Forsythe)1949年、米国ニューヨーク州生まれのダンサー、振付家。大学入学後にダンスを学びはじめ、シカゴのジョフリー・バレエ団を経て、1973年に独シュトゥットガルト・バレエ団に入団。前衛的なモダンバレエにもウェイトを置く同団で頭角をあらわし、1983年以降に芸術監督をつとめた。おもな作品に『アーティファクト』『インプレッシング・ザ・ツァー』、ベースミュージックのジェイムス・ブレイクの音楽をもちいた『ブレイク・ワークス1』など。
李禹煥
(リ・ウファン)1936年、大韓民国慶尚南道に生まれ、現在は日本を拠点に活動する現代美術家。1960年代後半には、石、鉄板、紙、木などのマテリアルを単体ないし組み合わせて作品を構成する「もの派」を代表する美術家にして著書『事物から存在へ』を著した理論的支柱として活動。1971年には第7回パリ青年ビエンナーレに中平卓馬らと参加。欧州を中心に活動の場を広げるとともに、2010年には直島に李禹煥美術館、2015年には韓国に釜山市立美術館・李禹煥空間を開館した。《関係項》《点より》《線より》など、彫刻と絵画とにかかわらず、作品の多くは空間における事物の「存在」を問題にしている。
武満徹
(たけみつ・とおる 1930〜1996)東京都出身の作曲家。戦時下に聴いたシャンソンに感銘を受け、音楽家をめざし、1950年、「2つのレント」で作曲家デビュー。同時期に瀧口修造を中心に、大辻清司も参加した「実験工房」に加わり、実験的な作風に移行。多数の傑作をものした映画音楽の分野でも活躍し、1967年、琵琶と尺八とオーケストラのための「ノヴェンバー・ステップス」で世界的な評価を決定づけた。著書に『音、沈黙と測りあえるほどに』など。
奥村靫正
(おくむら・ゆきまさ)1947年、愛知県出身のグラフィックデザイナー。桑沢デザイン研究所卒業後、同窓の眞鍋立彦、中山泰らと「WORKSHOP MU!!」を結成。サディスティック・ミカ・バンド、小坂忠、細野晴臣、加藤和彦ら日本のロックの発展期を象徴するレコードのアートワークを多数手がける。1977年に「The Studio Tokyo, Japan.(現TSTJ Inc.)」を設立、YMO、山下達郎、チェッカーズなどのアートディレクションを手がけた。
「ユリイカ」や「現代思想」
青土社を版元に現在も刊行する雑誌の名称。前者は「詩と批評」を、後者は現代思想や哲学を軸に政治、社会、文化、科学などを幅広くあつかっている。
ジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロ
(Giovanni Battista Tiepolo 1696〜1770)バロック後期のイタリアの画家。フレスコ画の名手としてきらびやかな作風で知られるが、描線の動きがダイナミックな素描も味わい深い。