各界で活躍する桑沢デザイン研究所の卒業生を訪問する「AMALGAM(アマルガム)」、連載10回目にご登場いただくのはグラフィックデザイナーの近藤一弥さん。文学、批評、コンテンポラリーなダンスや音楽などの分野を問わず、先鋭的な表現の、核心部分はそのままに鮮やかに視覚化する作品の数々には流行や時代の波にたやすく呑まれない力強さをおぼえます。編集や批評など、隣り合う領域への深い洞察に基づく近藤さんのスタイルはいかにして生まれ、現在にいたったのか。幼少期にはじまる足跡をひもとくインタビューはさながら、1960年代以降のカルチャーの歩みを辿り直すかのようでもありました。一部、撮影をご担当いただいた松本弦人さんにもご参加いただいております。
近藤 渋谷は時代に左右される街だと思うんです。僕が入学したのは、渋谷パルコで《日本グラフィック》展がはじまったころ。1回目は吉祥寺パルコが会場だったけど、それ以降は渋谷だったんじゃないかな。当時は学校周辺の喫茶店に寄って、パルコに寄ってというのがほとんど日課でした。あとはCVSですね。当時、学校から公園通りを下って左側にあったんですよ。結構いいものが置いてありました。あそこに(といって部屋の一隅を示す)23Envelopeの4ADカレンダーがありますが、そんなものも普通に売っていました。学校には一応行くんですけど、必ずまわりのどこかに遊びに行っていました。
近藤 きっと学生同士、友だちとなにかやっているのが楽しかったんですよ。授業で記憶に残っているのは米谷誠一先生。米谷さんはたしか、ウルム造形大に行ってらしたんじゃないかな。バウハウスの系譜にある桑沢でウルムだったからか教え方が独特でした。無口な方だったけど、僕は面白かった。BMWの真っ赤なバイクかなんかで登校してきて、コラージュの授業をするんですけど、良いも悪いも言葉ではあまり説明しないんです。それと、写真(の授業)は面白かったですね、桑沢はもともと石元泰博や大辻清司の系譜ですから。それなりに機材も充実していたし、暗室もあってよかった。
近藤 原宿セントラルアパートのほうに行くと、先輩にあたる戸田ツトムさんが当時出していた「メディア・インフォメーション」の雑誌やカードが置いてあるショップがあって、あとリバーサルのフイルムの現像をすぐにやってくれるお店があって、課題で撮影したフイルムをもちこんだりしていました。その店はE-6処理が3時間ぐらいで速かったから助かりましたよ。
近藤 大変でした。実際の仕事では締め切りが同時に来たりするじゃないですか。その状態を授業で作り出すということをやっていたんじゃないかと思いますけどね。
近藤 そうですね、自分ではわからないですけどね。理不尽だと思いましたよ。でも普通に現場を再現しようとしているんだなとも思いました。
近藤 じつは僕、最初はクリティックをめざしていたんです。宮川淳ってわかります?じつは高校のときから宮川ゼミに行こうと思っていたんですよ。
近藤 東大だと思われているんですけど、彼は成城で教えていたんですね。成城の文芸学部の助教授(当時)でゼミは成城にありました。エスカレーター校だったので、高校の途中で専攻を決めなきゃいけない。そこでこのまま大学に進もう、宮川先生のゼミに行こう──と思っていたんですが、僕が入学する前に急逝されちゃったんですね。
近藤 もともと批評に興味を持っていたのですが、大学受験がないのをいいことに、それこそ「ユリイカ」や「現代思想」、「エピステーメー」のようなものを読んで、いまでいう大学生的なことを高校生のときに謳歌していたんです。
近藤 まわりにもそういう人はいましたよ。
近藤 僕はハンス・ベルメールが好きなんですね。というのは小学生のときに「みづゑ」という雑誌に父の特集が載ったんです。その号には、のちに澁澤龍彦の『幻想の彼方へ』に編まれることになる連載のベルメールの特集がありました。なぜか僕は父よりも同じ号に載っていたベルメールに惹かれた(笑)。とにかく線がきれいだったんです。それが小学3年生くらいだったかなあ。あとはその頃、《日本国際美術展》や《現代日本美術展》という展覧会が交互に開かれていて《人間と物質》展(1970年)の直前まで日本の美術界では、問題をかかえながらもそれなりに権威をもっていました。父は日本画家なんですけど、そこにずっと招待で出品していたんです。当時は日本画家も現代美術の作家もみんな同じように出していて、家では毎年150号くらいの大作を制作する一大イベントでした。僕は一人っ子なので、留守に家に置いておけないじゃないですか。結果的に美術館とかギャラリーとか、親に連れまわされていました。原体験が《現代展》で、それが小学校に上がるくらい(笑)。いま言ってもみなさん信じてもらえないけど、《国際展》なんて上野の都美館にお客さんが列をなしていましたからね。記憶に残っているのはジャン・ティンゲリーの作品。子どもだから大人の頭越しに観るんだけど、大きな作品が本当に動いているんです。美術がさかんな時季でした。ただこうして美術の話をしていくと、テーマがそれていって、ついついデザインを否定するみたいになっちゃうんです(笑)。
僕は東北芸術工科大学で教えていたんですが、学校ではまず「デザインとはなんでしょうね」みたいな話になる。だいたいみんな「デザインっていうのはある目的を達成するための計画で」とかなんとかいうじゃないですか。それは僕の考えていることとは違うんです。デザインを計画どおりにしても面白いものができるわけがない、と思っちゃうんですよ。その点では方法論がまったく違うというか。
松本 日本のデザインは絵画の延長にあると思っていて、構造や設計からのデザインと、絵画的に捉えてるデザインは、ずいぶん違いますよね。80年代以前は絵画的なデザインが圧倒的に多くて、90年以降つまりDTPの台頭とともに構造や設計が重視されたように感じます。仲條(正義)さん、奥村(靫正)さん、井上(嗣也)さんといった「絵的なデザイナー」が強烈でした。
近藤 実際に活躍している人もそうだったかもしれないですよね。
松本 僕が桑沢に通ってたとき、嗣也さんがパルコやギャルソンをやってて、もはや「渋谷のアートディレクター」って感じでした。
近藤 大きいと思う。ただ僕はなんの恩恵もこうむらなかった。
近藤 僕はもともと、広告には縁がないんですよ。美術とか文学とか文化関係は興味があったのでいろいろ取り組んでいたんだけど、コマーシャルな仕事はツテもなくってよくわからなかった。だからデザイナーじゃないんだよね、きっと。グラフィックデザイン業界だと僕、鬼っ子あつかいされているみたいですよ。そもそもデザイン業界でエディトリアル系の人はちょっと別物としてあつかわれちゃうんじゃない。
近藤 大学では、宮川さんと仲のよかった映画美学の浅沼圭司さんのもとで学びました。当時クリスチャン・メッツという人が映画記号学というのを提唱していたんですね。デリダ、ドゥルーズの流れを引いたところで、浅沼先生もそういうことを専門としていらしたんです。浅沼先生は一時は蓮實重彦さんのライバルとも目されるような方でした。また、いまでもそうですけど、当時から僕は萩原朔美さんのような方にも影響を受けて、8ミリで映像作品も撮っていたので、映像も撮るし映画も観るし──といったような感じでした。
近藤 あまり大きな声では言えないんですが、画家のところにいるとわかるんですけど、たとえば絵画についても、批評家はいろんな解釈をするわけですが、作者にしてみれば、単に絵の具の都合だったりする(笑)。批評ではなぜかそういった技法的な問題を落としがちというか。あまりそれをいっちゃうと評論の立つ瀬がなくなっちゃうんだけど、そういうところもあって、立ち位置の中途半端な僕は、クリティックに限界を感じていたんですね。宮川さんはそうじゃなくて、〈引用の織物〉として実際に引用だけで作家に近づいたんです。そこにも限界はあったんでしょうけど、作家的な手法を進めていくことによってそこが紙一重になっていく、純化していく。そうすると書くものがなくなっちゃう。当時はそこに憧れていたんです。いわゆる学究的な意味での研究には限界があるんじゃないかと思うんですよ。芸術批評を純化していったら作品をつくるしかなくなっちゃう。でもそんなことは言えないじゃないですか。
近藤 たとえば作家でいうと僕は安部公房をリスペクトしているんです。実際に全集をデザインするあたりから裏方のような仕事もやっていたんですね。
近藤 予定より長くかかっちゃいました。
近藤 文庫の装幀を頼まれたんです。『飛ぶ男』でした。結局それはそのときは出なくて、文庫本の最後としてつい最近(新潮文庫版の刊行は2024年)出ました。
近藤 そうですね。その頃、ウィルデンスタイン東京で安部公房の写真展をやったんですよ(《安部公房写真展 Kobo Abe as Photographer》1996年10月26日〜11月29日)。そのカタログのデザインをしました。それがもとで文庫を依頼され、ちょうど全集の刊行がはじまる前だったので、全集もデザインすることになったんです。あのころは僕、美術関係の仕事をけっこうやっていました。
近藤 やりましたね(笑)。ケージの存命中だとなかなか実現できそうもない企画でした。あれはMOCA(ロサンゼルス現代美術館)の展覧会の巡回なんです。MOCAから水戸にまわると決まっていて、チャンスオペレーションで展示作品や展示場所が変わると謳ったけど、そこまでではなかった。部屋は入れ替えたりしてはいたけど、本気でやろうとしたら大変だったと思う。
近藤 ロクス・ソルスというレーベルわかりますか。
近藤 そうそう、そこに渡邊(宏次)さんという方がいて、僕は当時吉祥寺に事務所があって、まあ、ご近所だったんですよ。彼がレーベルを立ち上げたころかな。それでいろいろケージの資料を借りたりしながら、デザインしたんですね。当時、彼は自力でクリス・カトラーとフレッド・フリスを呼んでコンサートを制作したりしていました。ディス・ヒートのチャールズ・ヘイワードも呼んでいました。
近藤 彼は水戸芸術館にナディフが出していたコントルポアン(Contrepoint)というお店の店長さんだったんです。僕が水戸芸にかかわりはじめたころはもうやめていたのかな。とにかく吉祥寺に住んでいるからということで紹介されて、ときどきデザインを手伝ったりしていたんですね。
近藤 あのころってバブルが弾けた直後ぐらいでまだ仕事があったんですよ。
近藤 美術関係が多かったかなあ。あとはダンス、コンテンポラリーダンスかな。
ちょっとさっき話が抜けちゃったんですけど、僕がデザインのほうに行こうと思ったのは、エディトリアルをやりたいと思ったからなんです。「パイデイア」という雑誌があったんですね。「パイデイア」については僕は後追いなんですが、安原顯さんが編集していた時代があって、その後が中野幹隆さんの編集なんです。中野さんが編集長だった時代の「パイデイア」にミシェル・フーコーの特集号(「パイデイア」11号、1972年刊)があったんですね。そのデザインがすごくいいんです。杉浦康平さんが当時心血を注いだ号なんですね。それを大学の研究室で見つけてショックを受けた。もしかしたら僕は内容、読むことよりこっち(デザイン)に興味があったのかもと思ったんです。もちろん、杉浦康平さんデザインの「エピステーメー」は高校時代から買い集めていてすごい、とは思っていましたが、あらためてエディトリアル、グラフィックデザインが仕事になるということを認識するきっかけになりました。また他方、内容的には三浦雅士さんですね。原稿はね、やっぱり「ユリイカ」や「現代思想」の編集後記が好きでした。
近藤 僕は、勝手に師匠だと思っていますけど。ちょうどいま前橋文学館で開催中の《夢の明るい鏡──三浦雅士と1970年代の輝き:「ユリイカ」「現代思想」の軌跡》(会期: 2025年10月04日〜2026年01月25日)という展覧会の仕事をしています。いまは三浦さんは文芸評論家という枠組みで語られることが多いですが、その思想は最新の脳科学との関係で人間や芸術を捉え直すなど、いまなおとても刺激的です。
近藤 ただそういった雑誌にたいする思い入れも、世代が下がっていくにつれて、あまりないかもしれないですよね。雑誌はいまもあるけど。かつてはそうだったんですね──くらいのスタンスで。たとえばこうして「宮川淳さんがね」といっても話自体がもう過去の別次元の出来事になっている。カルチャーといっても、「いわゆるサブカル」は更新されているものがあるのかもしれないけど、メインのカルチャーものに関してはすごく断絶していると思う。
近藤 ジョン・ホイットニーの曼荼羅的な部分とテリー・ライリーの音楽がすごく合うんだよね、といって学校の授業とかでは生徒たちにがんがんにみせるんだけど、そういうことがいまないということですよね。
近藤 でもいまはネットがあるから、とりあえず浅く知るには全然楽じゃないですか。浅いという言い方は誤解を招くかもしれないけど、たとえ浅くても、それをきっかけに他のものとくっつけたり、発見したりすることが面白いと思うんですけどね。
近藤 そうだ。僕、編集者にもずっと憧れていたんですよ(笑)!
近藤 「マリ・クレール」だって一時期、安原顯さんがやっていたんだものね。
松本 そのころ、僕、デザインをやってましたよ(笑)。
近藤 そうなんだ! 女性誌なのにすごい特集をするんだよね。僕は安原顯さんにはお目にかかったことはないんだけど(笑)。
松本 野生のコアラみたいでした(笑)。
近藤 でも結果として面白いことやっているじゃないですか。その前の「海」もそうじゃない? あのころの雑誌はすごいですよね。
近藤 一連の企画に関わらせていただきました。本当の最終目標は安部公房の記念館のようなものをつくることだったんですが、それはちょっと難しかった。
近藤 まあ、演劇界からは無視されていましたけどね。最近は意識的に言うようにしているんですけど、僕は当時、寺山修司の舞台にも興味を持っていました。とくに後期の『奴婢訓』、『レミング』あたりが大好きでリアルタイムで観ていました。もちろん安部公房の演劇も好きで、後期安部スタジオになってからはほとんど観ています。でも三浦(雅士)さんによると、そういうふうに両方を観ている人はあまりいないのではないかと。アンダーグラウンドな演劇の文脈からみると、安部スタのはじまりは俳優座の流れなので、その意味であまり相手にされず、観られなかったそうです。
これは僕の考えなんですけど、『箱男』が安部公房の小説の究極だとすると、あの作品ができたのは、ちょうどその頃、安部さんが安部スタジオで演劇の方法を模索したことが大きいのではないかと。安部スタの演劇のメソッドは安部システムというんですが、フランスのジャック・ルコックという舞台演出家が提唱したメソッドに近いんです。いまのコンテンポラリーダンスなどに取り入れられている、身体をニュートラルにしながら、空間と一体化させていくような、いわゆるワークショップ形式に近い作り方なんです。当時、安部さんはそんな感じで台本のない演劇をつくりはじめた。同時に、小説家としての彼はもともと原稿をものすごく書き直す人だった。そのため途中からいち早くワープロを使うようになったんだけど、この当時の原稿の書き方も、かなり意識的にひとりワークショップみたいな感じで行われたのではないか。それが『箱男』成立につながっていくと。
近藤 俳優座で千田是也さん演出でやっていた段階では、戯曲はあくまで戯曲として、いわゆる演劇の範疇でやっていたけど、それでは満足できなかったんでしょう。それで自分なりの演出方法でいくことになって、役者もフィジカル自体からつくっていく。フィジカルをつくることで、演者のフィジカルと思考とのバランスのなかで作品ができていく、それがワークショップということだと思うんですけど、安部公房はそういうことをすでに70年代半ばからやりはじめるんです。そのような方法論に日本で先駆的に取り組んだのは安部公房なんですね。
近藤 あの映画の中のタイトルデザイン、僕のところでつくっているんですよ、キネカリグラフィで。アバンタイトルに安部公房のオリジナル写真を入れたのもそうです。石井さんの映画については、安部さんが80年代半ばに『逆噴射家族』(1984年公開)やノイバウテンの『半分人間』(1986年)のMVを観て、この人ならとOKしたそうです。その後1997年、クランクイン直前までいって実現しなかった。脚本の面で齟齬があったようですけど、そのときの『箱男』については時期に恵まれなかったのかもしれないですね。
近藤 そう思います。それもあって著作権者である娘さん(安部ねり氏)が亡くなる寸前にOKを出して、僕が一時的にその後を引き継ぐかたちになったんです。僕にはさっきいったような野望があったからなんですが……。でも安部公房、最近、以前より多く見るような気がしません?
近藤 版元に行って、生誕100周年ですよ、と伝えましたから。写真集も出しましたし、『死に急ぐ鯨たち・もぐら日記』という文庫本を再版して、新シリーズ(カバー写真:安部公房)の文庫のデザインもひとまず完結しました。
近藤 当時は関係各所からお叱りも受けましたが、あれは安部ねりさんが、ああいうものをつくりたいとずっとおっしゃっていたものなんですね。ただ、ねりさんが言葉でいくら話してもなかなか実現しなかったんだけど、デザイナーは形にできるから、それならこうなりますよと見せると説得できるじゃないですか。僕は美術が専門だったということもあるんですけど、美術ではカタログレゾネ的なものが多いんですよね。音楽もそうかもしれない。バッハの作品番号順に全作を収めるとかね。美術や音楽ではよくあることなんだけど、文学ではやらない。だから文学も1から順に番号をつければいいんじゃないかと思ったんですよね。
近藤 あと、これはあんまりいったことないんだけど、じつは僕、ファクトリーにけっこう憧れがあって。
近藤 そう、ファクトリー・レコード。
近藤 あれも全部順番じゃないですか?
近藤 むしろ僕はロックですよ。それこそ70年代のブライアン・イーノあたりですね。僕にとってはロキシー・ミュージックがデビューした72年ぐらいが一番ロックアルバムで好きなものが多い時期なんですよ。もちろんその前の時代も好きですよ。トニー・ヴィスコンティがかかわると音がいいとか、そんなふうに当時、中学時代に考えるのが好きでした(笑)。その後、一時期聴くものがなくなっちゃって、世の中ではパンクといわれている一方で、真面目に聴こうと思うとそれこそヘンリー・カウとかレコメンデッド・レーベル系のものとか、そのへんしか聴けるものはないみたいな感覚に陥ったんですが、ジョイ・ディヴィジョンが出てきて、ああよかったと(笑)。デザインとも連動しているし。
近藤 大好き──なんですけど、『サブスタンス』というジョイ・ディヴィジョンのジャケットに、尖った円錐形のビジュアルがあるんですが、あれって、ピーター・サヴィルがオランダの彫刻家の作品をもとにデザインしたものなんです。そのことを知って、面白いからとそれについて以前「ブレーン」という雑誌に、延々書いたんだけど、誰からも一言も反響はなかったですね(笑)。
近藤 あるときから僕はあまり変わらなくなっちゃったと思う。以前は自分が好きだと思えることと、カルチャー的な動きが連動していたから、それに任せてつくっていればよかったんですけど、途中から時代自体が、いわゆる脱構築的な自己解体そのものを目的にするような感じになって、そのことが繰り返されるようになってから変わらなくなりました。
近藤 完成なんてことはないと思いますけど。たとえば作家によっていろんなタイプの方がいますよね。それこそ音楽で考えるとわかりやすいんですけど。変わっていくことのなかに推進力を求める人もいるし……。それはわかるんだけど、変えなきゃよかったのに、と思うこともある(笑)。もうちょっとこのまま続けてくれたら、もっと聴けたのに、と思うことも多くて。
近藤 いまは前橋文学館で開催している《夢の明るい鏡──三浦雅士と1970年代の輝き》用の映像作品を作っています。僕の中ではデザインの仕事をすることと、作品を制作をすることとをあまり分けて考えてはいないんです、ビジネス面は別としてね(笑)。できれば、このようにあまりまわりを気にせず制作を続けられるといいのですが。
近藤 三浦さんにはお世話になっていることもいろいろありますから。2024年の神奈川近代文学館での《生誕100年 安部公房 21世紀文学の基軸》展でも監修していただきました。三浦さんに関して、ヘンな言い方ですが僕はオタクなんです。『考える身体』という本があるんですけど、それ以降10冊ぐらい続けて装幀しているんです。そのこともあって、僕は末端の読者としてずっと追いかけているし、ときどきお会いしてお話を直接うかがったりするので、たぶん僕は三浦さんについてはかなり詳しいほうですよ。
近藤 あれ、NTT出版なんですよね。
近藤 あれには背景があって、ウィリアム・フォーサイスがダニエル・ラリューという振付家とコラボレーションしたダンス公演のデザインを僕が担当したとき、フォーサイスからジョヴァンニ・バッティスタ・ティエポロという18世紀のイタリアの画家の素描の動きを想像した線を描いたものが送られてきたんです。フォーサイスの「仮定された流れ」(1996年)という公演で、これがその時のコレオグラフィ(舞踊譜)になったんです。実は三浦さんの本では、その考え方を援用してデザインしたんです。カバーの裏は実際にはモーリス・ベジャールの写真なんだけど、ベジャールの写真をみながら想像した動きの線を表に表現しているんです。
近藤 結局本は装幀だけど、物として残るから、ひとつの舞台装置みたいなものなればいいなとずっと思っているんですね。
近藤 いまデザインしているのは李禹煥です。彼の美術館(李禹煥美術館)が直島にあるんですけど、そこの広報物とかカタログをデザインしています。そこは、作品の展示のあり方も含めてのパーマネントコレクションなんです。だから、いわゆる展覧会カタログのような一過性のものではなく、なにか新しい見せ方がないか試行錯誤しているところです。
近藤 担当の方からの依頼です。後になってわかったことなんですが、李先生はうちの父のことをご存知だったんですよ。父より年齢が少しだけ下になるんですが、それこそ現代展、国際展の時代ですね。僕は基本的に武満徹とか安部公房とかが活躍した時代に興味があるんです。自分の父親も含めてね。最近気づいたんですが、結局それって、自分がその時代や環境の中で、それこそ偶然生まれて育ってきたということと合わせ鏡のようになっているんです。
近藤 そうですね、僕が幼い頃住んでいた家はとても小さくて、そこのアトリエで育ったようなものなんです。作家がなにかつくっている場所が日常の遊び場で、それが原風景なんです。そのこともあって、作家がなにかをつくっている場所に、執拗な興味というか執着があるのかもしれません。
近藤 同じ視点に立つことはできないですが、イメージの立ち現れ方のなにかを体験することはできると思うんです。作家は読者とのあいだにイメージを立ち現させる。僕がデザインする課程においては、その環境のなかで作家がイメージを立ち上げた状態に身を置こうとする。できればそれをなにかに定着したい。ようするにそういった入れ子状のイメージが層になっていくわけですよ。
近藤 できるならばね。それはおそらく自分が物質的なものに対する執着があることと関係しているかもしれない。その対象はいってしまえば、なにか特別なモノになればいいんです。ただ、それが絶対ではないですよ。僕、骨董とか苦手なんで(笑)。もちろん否定はしないですよ。ただあまりモノに執着しすぎると、今度はなにかを愛でることになっちゃう。それは芸術とか美術とは真逆のものだとも思うんですよね。紙一重ではあるけれど。
近藤 たとえば人間の思考と生死の問題をクリティックとかでは言語的に追求していくじゃないですか。一般的には「答え」を求めていく状態。一方、アートではそういうことを違うかたちで追求し続けていく──まさしくそういった状態そのものなのではないか、と考えています。
近藤 いまになって思うことなんですが、自分が少しでも気になることは気にするようにしたほうがいいということです。ちょっとした兆しとか、体調ひとつとっても、なんかちょっと調子が違うなっていうことあるじゃないですか。たとえばいつもと少し味が違って感じるとか。特に自分がつくっているものをみたり触ったりしたときに、その微妙な差分みたいなことを感じたら、それを意識していくのが大事なんじゃないかと。
言語的、理論的な部分と身体的なフィジカルな部分──じつは身体的なフィジカルな部分は感覚とすごく近いと思うんです。感覚的な部分と言語的な部分も紙一重じゃないですか。そこの、そのどちらが先ともいえない微妙なバランスなんだと思うんですよね。やっぱりそこに目を向けたり、耳を傾けたりするようなことが大切だと思います。
(2025年11月2日、京都にて/撮影:松本弦人)