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五味太郎

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Interview (9)

五味太郎 Taro Gomi

ないものをつくろう! アイデアのようなものは(自分の)内部にあるんじゃなくて、
そこらへんにおっこってる

桑沢デザイン研究所の卒業生より、各界で活躍する諸先輩方にご登場いただく「AMALGA(アマルガム)」、2025 年を締めくくるのは1973 年のデビュー以来、半世紀以上、400 冊を超える著書を刊行してきた絵本作家の五味太郎さん。『きんぎょが にげた』『みんな うんち』『さる・るるる』など、誰もが知る絵本クラシック、言葉や色、度量衡、モノやコトの根源に降りて楽しく思考する絵本の数々、ごく個人的な意見をもうしのべるなら、十代後半に出合ったリブロポートの諸作は、大人になりかけの取材者が絵本のおもしろさを再確認するともに、それが表面と形態をもつ、デザイン的な事物であることを認識するきっかけでもありました。ジャズやクラシックに耳を傾け、チェロを奏で、テニスや麻雀に打ち込む多趣味の人、それに輪をかけた多岐にして多義、多彩かつ多面的な五味太郎の絵本風景はいかにして生まれるのか。現在開催中の《五味太郎 絵本出版年代記展「 ON THETABLE」》の準備まっただなかの五味太郎さんをアトリエにたずねました。

Contents

デザインの研究所っていいな

五味 (本連載の潮田登久子氏の回を眺めながら)いきさつは憶えていないけど、彼女に写真を撮ってもらったことがあるよ。桑沢の卒業生というのがわかって、なるほど──みたいな話をしたけど、学校では一緒になっていない。だいたい俺、学校、真面目に行ってないからね。十代、二十代のころはどっかに籍置いてないと不安じゃない。住所みたいなもので、いちおう入っておこうみたいなもんだったよ。桑沢はいいとこだったけどね。

──桑沢へ入学されたきっかけはなんだったのでしょう。

五味 原宿から渋谷をブラブラ歩いていたんだ。誰かと待ち合わせしていたお店に向かっていたら、「桑沢デザイン研究所」と書いてあるのを見つけたの。デザインの研究所っていいなと思って、脇の階段を上ったら、学生を募集していたんだよね。学校かよ──とは思ったけど、ちょっと気になってもうしこんだんだと思う。その前に俺、(東京)藝大を受けるのをやめたの。油(画科)の試験の途中で描くのをやめたんだよ。藝大は当時、学科なんて簡単なもんだったけど、倍率は30 倍ちかくて、ダメ元で受けたら3 次試験の実技までいったわけ。その試験会場で描いていたときに、ふと、この絵、誰に見せるつもりで俺、描いてんのかな、と思っちゃったわけよ。

 俺、なにしてんだろうって思ったら、世界が、上野の試験会場の空間が瓦解していくような感じがあってね(笑)。これはやめようと、広げていた道具を全部拭いてしまいこんだ。ほかの受験生も、こいつなにしてんだ、という感じになるよね。試験中でもまわりがなにしているか気になるじゃない(笑)。道具をしまって、俺、試験官に、帰りますっていって、上野の駅に向かって歩きながら、もうダメなんじゃないかと思いながら、どこかでめちゃくちゃ解放された感じがあったんだよ。人生にはたぶん、そういうことが5、6回あるんだろうけど、その最初だったな。誰かにチェックしてもらうために絵を描いているんじゃないもんな、俺のためにやるんだもんな、という基礎的なところに戻って、さて、なにしよう──だよね。桑沢に出合ったのはその3日後くらいだよ。

 桑沢には最初、夜間部のグラフィックで入ったけど、やることなかったの。グラフィックはいいと思ったものをひたすら見ることだからね。俺はそのとき、ものの作り方に興味があったから、2年目に工業デザイン、ID(インダストリアルデザイン)に転入したの。

 これも面白かった。IDのクラスは20人くらいしかいないんだよ。いまは普通だけど、桑沢には当時も学校を卒業してもう一回勉強しようという人がけっこういて、年配のクラスメイトもいたの。キャノンのカメラをつくっているところの部長とかマックスという文具会社の開発部長とか。桑沢洋子さんはさすがに一本筋が通っていて、夜間部は昼間仕事している人限定というのがあったから、いろんな仕事をでっちあげたよ。授業は夜の6時から9時で、3分の1は普通の苦学生。ほかは働いているやつがもう一回学生やっている感じだった。

──普通の学校では出合わない顔ぶれですね。

五味 先生やインストラクターよりも生徒のほうが大人ということもけっこうあったから、生徒のなじみのママがいる店に連れていってもらったこともあるよ(笑)。あの1年間は面白かった。授業で印象に残っていることは全然ないけど、ものをつくろうかということになって、みんなでディスカッションをしたのは憶えてる。いまでいうブレインストーミングだよね。なにかモノをつくるときに本質までとことん話してみる。たとえば「椅子をつくる」という課題があるとすると、2週間前から「椅子とはなにか」という話を何度もする。ヘタするとそのまま飲み屋にながれて、椅子以外の話をしたら罰金10円とかいうルールまで決めて(笑)。

社会的に生きない

──五味さんは1945 年のお生まれですから、1960 年代なかごろのお話ですね。

五味 それからしばらくして東京オリンピックがあって、さらにその後に万博があるわけじゃない。当時の仲間で、まだ生き残っているのがけっこうまわりにいて、いろんな話をするんだけど、あのころは新幹線が速くなって飛行機も飛ぶようになって、国全体が楽しくなるんじゃないか、という予感があったんだよね。万博なんて、俺はまだ若造だったけど、真鍋博さんに「バイトに来い」みたいな話をもらって、三菱未来館にちょっとかかわったの。ああいう大きなイベントではいろんな人に会うけど、みんなよくわからないまま希望をもっていたよね。その何十年後にまたオリンピックがあり、万博があったけど、当時とはまるでちがう。「失われた30年」なんていうけど、この50年、なにが変わっちゃったのかなっていうことを、最近よく議論するよ。

──変わったという実感がありますか。

五味 とくに若い人を見たときにね。当時はどこの事務所に行ったって、なんかやりましょうよ、じゃあどうする、こうしましょう、と腰が軽くて、足腰がよくて動いていたけど、あのときの雰囲気がいまは本当にない。俺なんか、方々から五味さんのキャラクターを使って──という話はよく来るけど、みんな上を気にし、社会を気にし、コンシューマーのニーズを気にし、コンプライアンスを気にし──なにしたいの!?ってこっちが聞かざるをえないくらいに縮こまっている。

 それがわるい、といいたいんじゃないんだよ。ただ不思議なんだ。ついこの前も北京に呼ばれたんだけど、北京やベトナムは国が若いの。中華人民共和国といっても、70年80年の国だし、ベトナムの人なんか本当に若い。国民の平均年齢も30代ぐらい。日本はもっと高いよね。そこで、こういう企画をやってみましょう──となって、それがダメでも、じゃあ、〇〇さんに頼もうかなって軽いんだよ。ひるがえって俺たちの国は会議ばかり。ヨーロッパも日本と似ているよね。

──各国で絵本を出版されている五味さんならではのご感想ですね。

五味 それはまた別な意味で、この10年間くらい客観的に五味太郎の本ってなんだろうな、と考えはじめたところがあるんだよね。まあまわりの人もいろんなこといってくれて、それらを総合すると、時代に即して描いていないということなんだよね。社会的な要請や現象を追って描いていてない。描きようがないといえるんだけど、その理由は30代に社会的に生きるのをやめようかなと思ったからなんだよ。

──どういう意味ですか。

五味 社会ってわかんないよね。もちろんわかっているような顔はできるよ。こんな時代でも、誰が仕掛けたわけでもなく、こうなっちゃったのが現実じゃない。それにつきあって生きていくのは無理よね、と思ったら、なにをすればいいのか。俺は社会が使える、と思ったんだよ。社会を使って生きていこうと。具体的にいうと、社会は、世間はどんな本が読みたいんだろうか、という考えるのをやめたの。さっきいったコンシューマーのニーズというやつだよね。それに応えるのは俺には無理だと。逆に、俺が描きたいものを描いて「これいいね」というやつがどのくらいいるのか、実験してみようと思ったの。あくまでも俺が、俺の興味で、俺が面白いと思ったものを世の中に出す。そして俺と趣味の合うやつが何人いるんだろうかという考え方だよね。この考えは当時の絵本の主流ではなかったけど、「いいですね」といってくれる編集者もいたし、じっさいに出してみたら、趣味の合うやつは沖縄にもいたし、北海道にもいた。関東にもいた──この連続。そうやってある実感を得たときに、このままいこうという感じになった。だから俺は30代なかばから精神的な成長はないんだよ(笑)。

絵本作家の誕生

──30代なかばでそのような考え方を獲得するまで、桑沢を卒業して絵本作家になられるまでの経緯について教えてください。

五味 桑沢をいつ出たかもよくわかんないんだけどね。卒業証書もらった憶えもないもんな(笑)。

──卒業はたしかにされているようです。

五味 詐称じゃなかったんだね(笑)。絵本の仕事をはじめる前は、さっきいった万博の仕事や、一般的な商業デザインやディスプレイ、雑多な仕事の経験があったよ。どんな仕事も面白いし、それなりの快感と、もちろん大変さもあったけど、でもなにかちがう、なにかが足りない……そう思ったときに、体調がすぐれなくなってきて一度ひきこもるような時期があったんだよ。

──多忙ゆえですか。

五味 少し騒ぎすぎたのかな。それでなんかちょっと家にいる時間が長くなったときに自然にやっていたのが絵本の仕事だったの。絵を描いて字を書いて、そしたら友だちがこういうのは出版社に売り込んだらいいよ、とリストをつくってくれて、それをもとに適当に送ったら、やりましょう、と声がかかった。絵本作家になるという方法も自分で編み出したし、そのための学校に行ったわけでもないから、絵を描くなんてよくわからないんだけど、本が好きだったんだろうね。

──幼少期から本はお好きでしたか?

五味 そういう冷静な質問はありがたいけど、あんまり興味なかったよな(笑)。そんなに暗いガキじゃなかったからね。実はいま、俺のすべての絵本を図録にまとめているんだけど、そのためのインタビューでだんだんと照射されてきたのは、俺はガキのころから「いいだしっぺ」なんだということ。遊ぶのでも「野球やろうぜ」というのは俺。そうすると「やろうよ」とまわりもいうんだよ。でも俺はしばらくすると飽きちゃって、こんどは鉄棒でどこまで飛べるかみたいなことやっていると、なにやってんの──と真似するやつがやって来て競争がはじまるんだけど、また飽きちゃう。それで考えたのが最初になにかを言い出すのが俺の仕事だということ。こういうの、つくりました、というと、本にしましょう、と誰かがいう。このプラットフォームが、ありがたいことに合っていたんだね。その上で、新しい遊び方を提示しつづけているだけだよ。

はじめての絵本風景をめざして

──これまで400冊以上の絵本を出されてきて、アイデアが尽きるというご心配はないですか。

五味 アイデアのようなものは(自分の)内部にあるんじゃなくて、そこらへんにおっこっているという感じがずっとある。ただ俺の場合にはよくよく考えてみたらお話の絵本にはあまり興味がなくて、あえていえばある気分や現象を捉えるというようなことをつづけているような気がするんだよね。対象はよくある日常生活で、そのリアリティが元になったイメージが俺のいちばん興味のあるところなのかもしれない。

──『さる・るるる』(1977年、絵本館)は着想から仕上がりまで数時間だったという話を拝見したことがあります。

五味 本当だよ。一冊にまとめるとひと口でいっても、いろんなプロセスあるけど、『さる・るるる』みたいな言葉が対象の本はかぎりなくできるよね。

──そのような感覚が去来するということですか。

五味 その連続だよね。いまはそういうモードになってないけど、こういう現象は本になるかな、といつも思っている。この感覚なにかになりそう、というところに、視覚的なものとか言語的なものが出てきたら、「ああ、なるな」という感じですぐにとりかかる。とりかかって、「なんだ(本にならないのか)」ということもあるけどね。400冊描いてくると、以前に描いたものと似てくることもあるけど、自分のをパクっても訴訟問題にはならないでしょ(笑)。でもなにか、俺はよく「絵本風景」という言葉を使うんだけど、これははじめて出て来た絵本風景だなと感じると一冊描けるよね。そのやり方、ハウトゥを聞かれることもあるけど、よくわからない、というしかない。

──着想が生まれるときは作品としてひとまとまりの絵本というかたちで頭に浮かぶんですか。それとも描きながら考えるのでしょうか。

五味 やりながらが楽しいよね。俺はエスキス(仏語で草稿とかスケッチの意)とかダミーとかつくらないタイプだから、文学館的な展覧会とか向いてないのよ。好きでしょ、みんな、下絵とか。そういうのはまったくないですよ。いちおうメモみたいなものや軽い下書きはあるけど、終わったら捨てちゃう。

──もったいないです。

五味 俺のなかでは価値はないもん。それより創作は途中でこうなるとは思わなかった、という感じになったらいいよね。はじめて見る絵本の風景に俺が出合いたいわけだよ。むしろそれにしか興味がない。

──青写真通りに仕上がるような創作はやりがいがない、ということでしょうか。

五味 たとえば商業美術みたいな世界は「これで行こうよ」ということでイラストレーターもカメラマンもレイアウトマンも参加してくる。結論がみえなければ、作業工程がわからないよね。でもそれをやるとどうしても「作業」になっちゃう。俺が絵を描いているのは作業じゃなくて、それが人生なんだろうな──というようなことがあるんだよ。

──筆は速いほうですか。

五味 それはもうまちまち。5時間半でできちゃう奇跡的なものがあれば、これこのへん描きたいなと思って、ふと気づいたら、5年くらい経っているものもある。

──長期にわたって構想される作品もあるんですね。

五味 ただそこにこだわりすぎると、今度は概念論になっちゃう。ちょっと難しい言い方だけど、プロットがあっても、それが定着してしまうと作品にダイナミズムがなくなっちゃうんだよね。戦争反対の絵本がつまらないのは全部それ。戦争反対というのは結論ありきじゃない。つくっているうちに「戦争いいよね」となったほうがドラマとしてはもりあがるし、もしかしたらそこに戦争反対にたどりつくヒントがあるのかもしれない。でもプロットはすでに決まっていて、みんな仲よく、やさしく話し合おうよ、というのは「作業」だよね。

絵本は子どものもの?

──概念論という言葉が出ましたが、五味さんの絵本には抽象的な思考を促す側面もあると思います。

五味 概念論には二重構造があってすごく面白いんですよ。椅子とはなにか、ずっと考えていく、そのことは絵本に向いているよね。そのプロセスを見せていく。この存在とはなんだろうか、一種の概念みたいなものをどんどん発展させていく。もっというと、それがストーリー化するかもしれないし、あるいは概念の飛躍の仕方がダイナミズムを生み出すかもしれない。

 ある絵本でしりとりを扱うのだとしても、しりとりそのままをやっていてもつまらない。同じしりとりでも、こうなるとは思わなかったっていうのはあるからね。そういうことでいえば、俺の本はいつも概念論なのかもしれないんだよね。たとえば「幸せ」という概念があっても、その本質まではよくわからない。これについて、もういちど概念遊びしてみよう、という感じがあるのかもね。

──絵本の読者である子どもにはそのような概念はむずかしいのではないかという心配はありませんか。

五味 それもいま俺たちのまわりの問題のひとつで、絵本を子どもの本と設定しちゃったのは失敗なんじゃないかという意見があるんだ。芥川龍之介がなにかを書いたとして、それを誰用とはいわないよね。それなのに子どもの本は「これ何歳用です」とか、そういう話になってしまう。ガルシア・マルケスをひとりで読むなら何歳から、なんて絶対いわないよね。子どもの本を独占して商売をやろうとした連中が、考えたひとつの方法だったんだろうね。子どもの本という言い方はせいぜい「簡単にわかる本」という意味で、つまるところ商売なんだよ。その方法である程度成功したんだけど、本が出すぎてそれも苦しくなっちゃっている。俺はラッキーかアンラッキーかわかんないけど、絵本が児童書といわれた時期のことをなにも知らないでこの世界に入ったんですよ。『きんぎょがにげた』(1982年)を出したときは「これは何歳くらいからがいいんでしょう」というのは来たよ。

──どう答えられたんですか。

五味 「やっぱり14歳からかな」とかね(笑)。そのうちそれ(読者の年齢を限定すること)はおかしかったよね、と少しずつ気づく連中が出てきて、いま絵本っていうもののかたちをもう一回提示しようと話すことがあるの。そもそも絵本の好きな大人が「私まだ絵本が好きなんです」と妙な言い訳するからおかしくなっちゃうんだよ。商業的な区別はわざわざ取り払う必要もないかもしれないけど、それをしたい人たちに任せればいいんじゃないのかな。

──社会的な仕組みに収斂する考え方をしないということですね。

五味 世の中、めんどくさいのは理屈と理論でやっているからだよ。理論に合わないこともじっさいあるからね。なんで今年はタイガースが楽勝だったのかなんて、理由は全然わかんないよね。

──数値化できる戦力的な裏づけがあるんじゃないですか。

五味 データでみれば、防御率がよかったとか、打率がよかったとか、根拠になるものはあるだろうけど、予定通りいくわけじゃないよね。いまはAIという不思議な存在がいるけど、AIが参照するのは全部過去のものだからね。これから先の話はAIはやらなくていいんだよね。そういう過去のデータをなんのために使うんだろう、という話を、あらためてやらないかぎり、次は出てこないよ。出版社の営業会議でもいま売れている本を集めてきてこういう傾向のものをつくりましょう、というようなことをいうよね。これはもうあるんだから、いいじゃんって、簡単な話だよ。ないものをつくろうよ、という会議なら5分もかからないのに。前のデータよりも次の野球をやろうという話じゃないですか。データが出ているならお前らの勝ちに決まってんじゃん。俺たちがやってもしょうがない。でも次のやり方だとわかんないよ、ということだよね。

わからないという不安が宇宙の規範

──たしかに現状を追認し、予測の精度を上げることが、出版の世界でも優先事項になっているかもしれません。

五味 メインストリームの文化は教育的な意味もふくめて、わかる、わからないという世界にいるよね。明日、雨が降るでしょう、株価は上がるでしょう、というようなことをいうけど、結論はわかる、わからない、ということではないんじゃないかな。

 算数で、10から7を引くと3になるというようなことが価値観の前提になると、わからないことの楽しさ、面白さ、それゆえに僕たちの宇宙はつづいている、というような概念みたいなものがどんどん不安というかたちになっちゃう。

 わからないということの不安がじつは基礎だと思うんだ。俺だって、明日死ぬかもしれない。そのわからなさみたいなものが、実は宇宙の規範なんだよっていうくらい、大胆な提示を絵というものはしているんだと思うんだよ。だから絵をわかろうという教育はやめてほしいんだ。音楽もそう。音楽もわかるとかじゃなくて、あれはプロセスの話であって、そんな話、もうやめようよってことだよね。明日が保証されるのものなんかないんだから、予約をとることは重要じゃない、といいたいんだけど、どんどんそっちのほうに傾いているよね。

──不安はなるべく解消したいということかもしれません。

五味 でも不安っていいじゃん。これがないかぎり面白くない。わからないからわかりたい、でもやっぱりわからない。話はまたどんどん飛ぶけど、ニュートンやダーウィンは万有引力の法則や進化論を発見したよね。だけどなぜ重力が地球の中心に向かっているのか、なぜ進化のプロセスで突然変異が起こるのか、その理由はわからない。自分のわかるのはここまで、ということで結論は先延ばししているんだよね。俺はその態度がすごく好きで、じつは俺もこの宇宙にかんして感じたことを、このようにまとめてみました、こんなに楽しかったです、という言い方で先延ばししているんだよね。ニュートンもダーウィンも答えなんか出してないのに、試験をやるみたいに、答えを出してどっちが正しい、間違っているというのを試すようなことになってしまう。こんなチープな世界、やめてくれといいたいよ。政府がさ、国民の安心と安全みたいなことをいうからさらにおかしくなるんだけど、安心安全なんて死んでからでいいよ。うちのオヤジなんか、いますごく安定しているよ(笑)。

情報センターとしての学校

──そのような社会におかれている若者たちのなかには、今回の記事を読んで桑沢に入って、デザインや創作の仕事を目指す人もいるかもしれません。彼らになにか言葉をかけるとしたらどうなりますか。

五味 俺は桑沢みたいなところがもっと情報センターになるべきだと思っているんだよ。いまいちばん問題なのは自分の作業がどのような流れのなかにあって、その先に社会が、どのようなかたちであるのか、見えないということだと思うんだよね。

 「学ぶ」というのは自分で学ぶんだよね。自分で学ぶんだけど、学生には社会が見えないから工業デザインなり服飾デザインなり、こういう流れでいま世の中が動いているよ、ということを伝えるための情報センターが必要だと思うんだ。そこに通っていると、いろんな情報が入る。こっちの方向はどうだろうか、ということを(学生が)やれるようになったらもっと面白いのに、と思う。そうなると俺なんかも行けるよね、使えるよね。

 なにかを教えてくれる、というのに期待する人はクリエイターにならないほうがいいよ。クリエイターは自分でやるものだからね。効率わるいけど自分でごちゃごちゃやる質(たち)だなと思ったら、その次のステップとして、情報センターがあれば、いろんな人が集まって、連絡もつくし──というようなエージェントのような感じに桑沢がなったらいいんじゃないかな。「学校」っていうのはちょっと古すぎる。先生がいて、教えてくれる──このシステムはもうやめてもいいかもしれない。これはどの教育機関でもそう思う。なりたつのはゼミみたいな形式で、ある程度知っている人間が情報センターとしての知識をどんどん渡していけばいい。インターネットも、その点では最初はすごく健全だったはずなんだけど、いまやお買い物の道具だからね。

──壇上から先生が生徒へ教えるというあり方も賞味期限を迎えたかもしれないということですね。

五味 レクチャーってやつよね。そういうのはもういいんじゃないかな。俺がいたころの桑沢もみんなでしゃべる感じで、学校というシステムとはちがっていたからよかったんじゃないかな。講師も若かったからね。戸村浩さんはこの前亡くなられたけど、俺が19〜20歳のとき、彼だってまだ二十代なかばのほぼ同じ世代で、同じようなことに悩んでいて、同じような問題がありながら教えていたんだから。

半世紀、400冊を超えて──五味太郎の現在値

──五味さんはいまでも絵本を日々制作されていますか。

五味 制作するときはしているけど、ルーチンじゃないから、描きたくなったら描くよ。いまちょうど、みなさんが来てくれるんで、伝えたいんだけど、12月の12日から代官山のLURFGALLERY(ルーフギャラリー)というところで《五味太郎絵本出版年代記展「ONTHETABLE」》という展覧会をやるんですよ。50年間やってきた書籍にかんするもの、翻訳本も、海外の本も全部まとめた、展覧会というか展示会というか、この50年間の作業を物理的に並べてやろうと思っているんだ。いまそこらへんに段ボールが出ているのはその準備もあって、2000冊くらいになるかな。

──かなりの分量ですね。

五味 現場でレイアウトするしかなくて、搬入のために3日間とっているけど、ちょっと面白い展覧会にしたい。その理念としてはね、いまITがどうのこうのとか、電子がどうのこうのっていうけど、紙の本をつくる作業ってけっこういいよねっていうのをみんなに見せたいんだよ。

──紙の本をつくるさい、五味さんは装丁や用紙や書体にご意見を述べられますか。

五味 ほとんど俺の作業ですよ。いまの時代は、それをデジタルにしなくちゃいけないから、デザイナーがスタンバイしてくれているけど、最後の奥づけなんか入れるところまで丸ごと俺の仕事。表紙の部材から見返しの色まで100%やります。本というもののテクノロジーはすごいし、日本はとてもいい国で、これちょっと海外じゃ無理だなっていうくらいに紙もいっぱいあるんだよね。

──絵本は一般的な書籍に較べて判型も仕様もばらばらでたいへんな気もします。

五味 だから面白いんだよ。紙ひとつで本全体のニュアンスが変わるし、判型を決めること自体、面白いし、出版社も親しいところとやっているから「今回はこのへんの判型でいこうか」とか、細かいことも含めてもういっぱいやります。でも最終的に製版したり製本したり印刷したりするのは専業がやってくれて、そのテクノロジーもどんどんあがっているよね。スキャニングの精度なんて50年前に較べたらすごいよ。

──本づくりの話でいうと1990年代に五味さんは「自由形」(チャイルド社)という雑誌を編集されています。ファイルマガジンという斬新な形態でしたが、「自由形」にはどこまでかかわられたのですか。

五味 あれも100パーセント、俺。当時は競合に安価な月刊誌があってなかなかうまくいかなかったけど、7年間やったよ。

──書物以外ではNHKで放送されたアニメ番組もあります。

五味 あれは向こうから「五味さんの絵本をアニメーションにしたいんです」といってきて、試作をみたら面白かったから任せたの。ひるがえって俺には本を「動かすな」という考え方があってね。絵本は動かないから動かしてあげます──なんてことをしなくても絵本はちゃんと動くのよ。自分で思った通り動くのよ。(『きんぎょがにげた』の)きんぎょはちゃんと動いてる。絵は全部スチールだよね。止まっているんだけど、フレーミングの外まで感じるような力がある絵ならば、動くわけ。

───映画や動画とも異なる想像的な映像表現ですね。

五味 絵本は絵本のなりにできることは数限りなくある。そのために絵本的な技法の実験を繰り返しているということだろうね。でも、もっとあるんじゃないかと、ノーテンキに思ってるよ。いままでにないサムシングエルスをどこかでつねに模索しているよね。

──400冊以上、ご著書を刊行されても、なにか新しいことがあるという手応えをおもちなんですね。

五味 俺、テニスを一所懸命やってんだけど、テニスのゲームには同じ状態は絶対ないの。麻雀もそう。であれば、似ていても、ちょっとちがう本を描けるはずだし、いままでの技法を使って、わざとちがう展開に行っちゃうのもあるはずだし、こういうテーマはいままで扱ってない、ということだってある。たとえば俺の初期のころの本に『みんなうんち』(1977年、福音館書店)というがあるの。

──世界的なベストセラーです。

五味 あれは単純にうんこが好きだということで描いたら、時代を超えてもう50年ちかく、17〜18ヵ国で本になったけど、当時はそうなるなんて思ってもいなかった。もちろん、たんにキワモノのつもりで描いたわけでもない。なにせ、うんこを見ていて、すっごい面白いなと思ったんだから。これはこれでなにかまとめたいなっていうだけで、その連続だよね。

デザインという品

──ご自分がやられていることに飽きてくることはないですか。

五味 急に鋭い質問が来ると困るけど(笑)、同じ状況がつづくと飽きちゃうことはあるね。外国に呼ばれてイベントなんかやるのは面白いんだけど、同じ状態がつづくと早く帰りたい、と思うこともあるよ。でも不思議に、絵本をつくる作業で飽きた、という感じはないよね。絵を描いて色を塗ったりするのが大好きなんだろうね。暇ならばここに来て、タバコ吸って、描いているね。長野のほうにも家があるんだけど、そこはアトリエもあって、でかいタブローを描いている。絵本をつくるにはわりと事務的な作業も多いから、ここくらいこぢんまりしたほうがやりいいということがわかってきた、という感じかな。

──タブローと絵本での制作におけるちがいはどのようなものですか。

五味 芯は似ているかもしれないけど、タブローのときはなにを描きたいんじゃなくて、描いているうちにこんな感じになってきたっていうのが好き。途中までいって、キャンバスを逆さまにしてみたら新鮮に感じるようなものだよね。さっきいった12月の展覧会では絵本に関係のあるタブローも並べようと思っているんですよ。

──大規模な展覧会ですね。

五味 本をそれだけ並べるような展覧会は前例がないらしくて、公共の美術館に企画を出しても腰が重いから、これはもう俺がやるしかないな、と思って自分で企画したの。

──美術館での展示というと原画を額装して並べるイメージです。

五味 俺のは額に入れて飾って見てほしい絵じゃなくて本なんだよね。本として見てほしい。みんな、原画を見たがるんだけど、あれはむしろ原稿なんだよ。それに俺はカラーインクをよく使って、褪色するから長期の巡回なんかすると痛むんだよね。

──そのような活動を通して、五味さんが「デザイン」という言葉を再定義するとしたら、どうなりますか。

五味 デザインは「品」なんだよ。これは俺の先生……先生というのはむしろ生徒が決めるものだと俺は思うんだけど、榮久庵憲司先生がいっていたことでね。とあるシンポジウムで俺がヘンなことをいったら、帰りに、同じく登壇していた榮久庵先生が「五味くん、うちの事務所に来なさい」っていうものだから「遊びに行くんですか」と訊いたら、「勤めるんだよ」って(笑)。「イヤですよ」といって大笑いしたんだけど、それからずっと、榮久庵先生が亡くなるまで、つきあいがあったんだ。その榮久庵先生がいっていたことに、「品」という字は下に2個四角があって上に1個乗っていて、安定している。それを探るのがデザイナーだよね、ということがあったの。冗談めかしていっていたけど、デザインってそういうものだと思うよ。それ以上でもダメ、それ以下でもダメ。このコップの把手があってもなくてもいいならあっちゃいけない。デザイナーたるもの、これはなくちゃダメというところまで、削ぎ落とそうよ、ということだよね。グラフィックでも残っているものは絶対必要なもの、ということは俺の頭の片隅にもあるよ。絵本の場合はそこのところの許容範囲がもうちょっとあって、あってもなくてもいいものが効果を生むこともあるんだよね。あと榮久庵先生にいわれた面白いことは、大事なのはエッチだ、ということだよね。

──エッチというのは?

五味 性的なこと(笑)。

──文字通りでした(笑)。

五味 大好きだもん(笑)。まわりは真面目な人が多いから、俺だけウケてんだよ。それで悪ノリしたら「品がない」って(笑)。すごい人だよ、あの人もGKデザイングループも。話を戻すと、いまの世の中、本当は大事なセクシャリティまでコンプライアンスでどんどん消えていくわけ。女性性とか男性性とか、子ども性とか老人性とか、そういうものをみんな均一にしていく。均一じゃないことにも問題があるんだろうけど、そもそも問題が出てきちゃいけない、ということにコンプライアンスがしちゃっていると思うんだよ。極論をいえば、ものをつくる時代じゃないかもしれない。そんなときでも、俺はニヤニヤしながら、つくりつづけるよ、というだろうね。それくらい紙のプラットフォームは自由なんだということを、今回の展覧会では見てもらいたいね。

(2025 年10 月1 日、五味太郎氏アトリエにて / 撮影:塩田正幸)

Information
五味太郎 絵本出版年代記展 ON THE TABLE
会期:2025 年12 月12 日(金)〜2026年2 月2 日(金)
11:00 〜19:00(12 月30日〜2026 年1 月6 日は休館)
場所:LURF GALLERY 東京都渋谷区猿楽町 28-13
入館バッジ(期間中有効)1,500 円
https://lurfgallery.com/blogs/current-exhibitions/gomi-taro

絵本作家、五味太郎が1973年にデビュー以来、52年間描き続けている絵本作品を一堂に会する、「本」の展覧会。総タイトル368冊に、海外30カ国以上で出版された翻訳本を加え、五味太郎の絵本の全貌を展示します。1階カフェでは、タブロー(絵画)やシルクスクリーンなどの作品をご覧いただけます。
Profile
五味太郎(ごみ・たろう)
1945年、東京都生まれ。桑沢デザイン研究所ID科卒。『みんなうんち』『きんぎょがにげた』『さる・るるる』『なんとなく』『仔牛の春』『ばく・くくく』、らくがき絵本、しりとりぐるぐる絵本などのシリーズ作、『大人問題』『さらに・大人問題』『勉強しなければだいじょうぶ』などの著書、写真集に『TAKEAPICTURE』などがある。海外での翻訳出版多数。『かくしたのだあれ』『たべたのだあれ』でサンケイ児童出版文化賞、『仔牛の春』でボローニャ国際絵本原画展賞、エッセイ集『ときどきの少年』で路傍の石文学賞受賞。2012年、桑沢特別賞を受賞。
東京オリンピック
1964年(昭和39年)10月10日から10月24日を開催期間とする第18回夏季オリンピック。高度経済成期の開催にあたり、東海道新幹線や首都高速道路などのインフラ整備、テレビなどの家電の普及を後押しした。五輪開幕に合わせて竣工した、丹下健三による吊り構造の国立代々木競技場は桑沢にほど近く、本連載でもしばしば言及がある。
万博
1970年(昭和45年)3月15日から9月13日の183日間、大阪府吹田市の千里丘陵で開催したアジア初の国際博覧会(Expo'70)。「人類の進歩と調和」をテーマに77か国が参加した。岡本太郎の太陽の塔、パビリオンではアポロ12号がもちかえった月の石を展示したアメリカ館などが語り草。
真鍋博
(まなべ・ひろし 1932〜2000)星新一とのコンビがつとに有名な愛媛県生まれのイラストレーター。アニメーターでエッセイストでもある。五味氏は当時、真鍋氏の事務所に在籍しており、真鍋氏が起案グループの一員をつとめた三菱未来館の準備に携わった。
失われた30年
1990年代初頭のバブル崩壊後、長期にわたる景気低迷、低成長時代をあらわす常套句。失われた10年にはじまり、20年、30年と言い換える傾向にある。
芥川龍之介
(あくたがわ・りゅうのすけ 1892〜1927)明治から昭和初期にかけて活躍した日本の作家。「羅生門」「鼻」「杜子春」など古典に範をとったもの、芸術至上主義の「地獄変」、晩年の「歯車」「或阿呆の一生」などの心境ものなど、現代文学の礎を築いた。
ガルシア・マルケス
(ガブリエル・ホセ・デ・ラ・コンコルディア・ガルシア・マルケス Gabriel José de la Concordia García Márquez  1928〜2014)代表作『百年の孤独』は2024年、作家没後10年を機に新潮文庫が再刊し話題になった。1960年代を席巻した魔術的リアリズムの代表的な作家で、ほかに『族長の秋』『これら時代の愛』など。1982年にノーベル文学賞。
戸村浩
(とむら・ひろし 1938〜2025)中国天津生まれの工業デザイナー。高橋正人デザイン研究所にて構成を学んだのち、桑沢デザイン研究所インダストリアルデザイン専攻科を卒業。柳宗理に師事したのち、造形美術家として活動。代表作に《Move Form》や《CUBE》のシリーズなど。桑沢でも構成分野で教鞭を執った。
NHKで放送されたアニメ番組
NHK Eテレ『おかあさんといっしょ』内に不定期に放送していた「きょうはだれかな?」シリーズのこと。本作以外にも、『きんぎょが にげた』『さる・るるる』『たべたのだあれ』などのアニメ化作品もある。
榮久庵憲司
(えくあん・けんじ 1929〜2015)東京生まれ、広島育ちの日本の工業デザイナー。東京藝大卒業後、GKインダストリアルデザイン研究所設立、所長となる。1959年、黒川紀章、菊竹清訓らによる若手建築家、都市計画家グループ「メタボリズム」に参加。61年に「キッコーマンしょうゆ卓上びん」をデザイン。79年には工業デザイン界のノーベル賞と謳われるコーリン・キング賞を受賞。87年、桑沢デザイン研究所第4代所長に就任。JRの車両からJRAのロゴ、「道具寺道具村構想」の提言まで、多岐にわたるデザイン領域で活動した。
GKデザイングループ
東京藝術大学在籍中に同大学教授の小池岩太郎のもとで、教え子の榮久庵憲司、岩崎信治、柴田献一、伊東治次らが創設。GKは「Group of Koike」の略。インダストリアル、プロダクト、環境デザインなど、領域横断的な複数の会社からなるデザイングループ。