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川瀬陽太

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Interview (7)

川瀬陽太 Yohta Kawase

映画の中に入った男 桑沢に通っているときからそうでしたが、
人に豪語できるのは映画が好きだということなんです

2025年に71年目を迎える歴史において多彩な人材を輩出してきた桑沢デザイン研究所の卒業生でも、川瀬陽太さんの経歴は異色といえるかもしれません。桑沢進学以前より携わっていたという映画の世界で、スタッフから役者へ転身し、いまでは年間10本を超える作品から声がかかるまでに支持を集めるにいたったキャリアの土台について、川瀬さんはまっさきに「映画が好き」であることをあげます。その気持ちをいかに持続させるか──。日本の映画界を代表する巨匠の大作から作家性を前面に押し出した自主映画まで、シリアスな人間ドラマからクセのあるコメディまで、いまや日本映画に欠かせない俳優のひとりとなった川瀬陽太さんにその極意をうかがいました。

Contents

シブヤ、クワサワ、90年代

──川瀬さんは多彩な人材を輩出してきた桑沢でもめずらしい、役者の道に進まれた卒業生です。まずなぜ進学先に桑沢を選ばれたのか、教えてください。

川瀬 じつは最初の受験では四年制大を受けましたが、うまくいかず、浪人生活のなかで絵が好きなんだからという理由で美大受験を志したんです。当時は第二次ベビーブーマー世代で、倍率もすごく高かったころで、藝大こそ受けませんでしたが、多摩美、武蔵美を受けて、浪人を重ねてしまうんです。

 進学先としてはいちおうデザイン希望でしたが、動機は不純で、絵を描いてそれがなにかになったらいいな、というようなことでした。モラトリアムの時間がほしかったのかもしれません。ただ同じころ、自主映画の世界にも入っていたんですね。

──映画にかかわるきっかけはなんだったんですか。

川瀬 とある美術予備校に通っていたとき、同級生の女の子に誘われたんです。陽太くん、映画に興味あるんでしょ、とスタッフ募集が載った映画のフライヤーを手渡されたのがきっかけでした。彼女は誰かに頼まれて、その映画のフライヤーをコピーでつくっていたんです。受験が控えているにもかかわらず、浪人を重ねたフラストレーションもあり、映画の世界に入っていったんです。そんな状況で、ああ桑沢という選択肢もあるなと気づきました。これまた不純な動機ですが、武蔵美とか多摩美だと、少なくとも最初のうちは郊外のキャンパスに通うことになりますよね。受験のさい、アクリル絵の具をカラカラ(キャリアー)に乗せて、都心から反対へとぼとぼ向かった、さびしい想い出が僕にはありまして、であれば渋谷がキャンパスの桑沢も受けてみようかと。そうしたら、おかげさまで受かりまして、桑沢での学校生活がはじまりました。

──お生まれが1969年ですから、お話いただいたことをふまえると、1990年前後のご入学ということになりますね。

川瀬 正確な年度は忘れましたけど、90年前後でした。

──入学された学科はどちらですか。

川瀬 グラフィックです。ただグラフィックに特別な興味があったというよりは、あのころ、美術でいうと、会田誠さんやヤノベケンジさんのような方が出てきて、アニメなりマンガなり、比較的身近なメディアとアートがくっつきはじめた転換期だったと思うんです。まだ日本も景気がよくて、『i-D』とかの日本版が出ていたころですね。『Studio Voice』もみんなが買っていたころですよ。

──おそれいります(笑)。

川瀬 もっというと、学校に行く、公園通り近辺にもレコード屋もたくさんあって、CSV渋谷がその象徴ですが、とにかくいろんなものに触れたという印象があります。それこそ渋谷系という言葉が出てきたときだったので、桑沢のある渋谷は立地としてはすごく刺激がありました。桑沢にはいろんなことに興味をもった人たちが多岐に渡って集まっていました。音楽ひとつとっても、60年代のを聴くやつがいれば、フランス・ギャルのような音楽がリバイバルしていたり、ファッション科の子もいて、フリッパーズ、ピチカートの時代でしたからね。

──当時オシャレでした、川瀬さん?

川瀬 (間髪入れず)ンなわけないじゃないですか。まあでも、ヘンなかかとの高い靴も履いてみたこともありますよ。そのときに確信したのは、ホワイトジーンズを履いちゃいけないということ(笑)。色黒の自分がホワイトジーンズにサイドゴアブーツだと、まるでムエタイの選手が白いジーパンを履いたみたいで。あのときのショックは大きかったですよ(笑)。

──目立っていいかもしれないですけどね。

川瀬 まわりにはオシャレな子たちがいっぱいいました。僕も近郊とはいえ、子どものときから新宿や渋谷が活動圏でしたけど、やっぱ地方から来ている子の方が、ちゃんとオシャレしているんですよね。友人の、青山出身の中原(昌也)くんとかは、自分同様で、そうだよね、ここ地元だもんね、というような恰好なときがあるじゃないですか。それが桑沢のときのように、まわりにオシャレなひとたちがいると、なんか考えなきゃなあ、と思いますもん。その結果、勉強以外の刺激も多くなりがちなんですが。

──勉強の刺激はいかがでしたか。

川瀬 僕はもう劣等生だったと思います。そうはいいながら、現実的に課題をこなさなきゃいけないわけで、その一環としてシルクスクリーンなどをやらせてもらったのはいい経験でした。僕らのころはちょうど学校にパソコンが入るか入らないかという端境期で、級数表とかカラス口とか、そういうものを使っていたんですね。傍らでは、ネヴィル・ブロディのようなデザインが流行っていた時期でもあって、やっぱりMacがないとね、みたいな感じもありつつ、高かったのでもちろん買えませんけどね。大竹俊介という研究科に進んだ友人によると、研究科には1台あったらしいですけどね。彼は卒業後、スペースシャワーネットワーク等の仕事にかかわって、いまでもデザイナーとして活躍していますよ。

──当時のご友人とはいまでもつきあいがありますか。

川瀬 飲み屋でのつきあいも多いですが、いまいった大竹は原宿にオフィスがあるので、たまに会いますね。

桑沢在籍時の川瀬氏。時の流れを感じさせる

人との出会いで映画にのめりこむ

──熱心ではなかったといいつつ、お話をうかがうと、絵を描いたり手を動かしたりすることはお好きなように思いますが。

川瀬 絵を描くのはたしかに好きでした。でもそれ以上に映画が好きだったんです。そういう意味では学校でのなにかということでは、人的な影響がいちばん大きいかもしれません。人との出会いがすごく大きかったと思います。

 僕はもともと俳優をやろうと思っていたわけじゃないんです。映画が好きというところからはじまりましたが、可能性を考えていろいろやってはいたんですけど、学校を出たあたりでしょうか、助監督のお話をいただくようになったんですね。「作り物」もやりたいという希望もあり、美術と演出を兼任するようなことになると、学校での経験が役立ってきます。特殊メイクの真似事みたいなこともやったこともありますよ。

──当時は映画や映像を撮るというのはいまほど身近ではなかったですよね。

川瀬 フィルム時代でしたから。自主映画、インディペンデントといっても、最低でも16ミリで撮らないと劇場にはかけられません。となると、それなりにお金を引っ張ってこられる、アクの強い人たちが目立ってきますよね。

 僕の前の世代だと、いまは岳龍さんになった石井聰亙さんや塚本晋也さん。僕は福居ショウジンという監督につきましたが、福居さんの横には山本政志さんがいて、というような時代です。みんなそこで映画をつくっていました。

──1990年代ですね。当時の映画の世界の状況について教えてください。

川瀬 邦画については、僕らがこの業界に入る前、80年代の角川映画のころにすでに「凋落」といわれていて、それはいまも変わらないと思います。技術的には、現在のようにiPhoneで4Kの動画が撮れるような時代ではなく、最低でも16ミリ──ということは現像費もかかり、それなりの機材が必要になりますよね。さらにいえば、それを使えるスタッフも必要という時代でしたから、その組閣ができない人間には映画は撮れなかったんです。

──組織力というのは大きなポイントですね。

川瀬 その点で僕は、ひとりではなにもできないと思っていたんです。みんなで集まって知恵を出し合って、一個のプロジェクトを完成させるという作業が好きだということに気づいたんですね。それこそデザイナーをやっている友だちを見ていると、ひとりでちゃんと物事を進めたり、フリーランスや、自分で会社を起こすような人も多かったですが、僕はあまりその感覚がもてませんでした。本当にアクシデンタルな理由で俳優をやらないかという話になり、俳優部にコンバートしただけで、芝居よりも映画が好きではじめただけでしたから。桑沢に通っているときからそうでしたが、人に豪語できるのは映画が好きだということなんです。

──映画好きには当時の渋谷はすばらしい環境でしたよね。

川瀬 いまはライブハウス『WWW』になったシネマライズとか、桜丘の方にはユーロスペース、シネセゾン渋谷など数多くのミニシアターがありました。映画とは関係ないですが、都知事選で渋谷公会堂の前のところにトラックが横づけになったかと思うと、内田裕也さんが出て来て歌ったり、あのころの渋谷にいられたのはよかったですよ。

事故的俳優論

──はじめてカメラの前に立った作品はなんですか?

川瀬 福居ショウジン監督の『ラバーズ・ラヴァー』です。それが、また奇しくもいまはなきシネアミューズ、東急文化村の向かいの劇場でかかりましてね。96年かな。

──アクシデンタルな理由で役者になったとおっしゃいましたが、適当な役者がいなかったからスタッフから役者にとりたてられたということですか。

川瀬 監督はそうじゃないといいますけど、あの映画には事務所に頼みづらいバイオレントな役やちょっとえぐい表現があったので、なかなか決まらなかったのだと思います。理由ではどうあれ、役者にしてもらった転機ではあります。

──はじめて演技をされるにあたって戸惑いや迷いのようなものはありませんでしたか。

川瀬 それどこじゃなかったです。芝居もやったことない人間が、東京グランギニョルの飴屋法水さんとか斉藤聡介さんと、いきなりテンションの高い芝居をしなければならない。がんばるしかないという心情でした。でもできあがって映画が劇場にかかったときは、ひとつのものを生みおとしたんだという充実感があったのは事実です。

──その後の俳優人生は順調でしたか。

川瀬 このまま俳優をつづけるか、演出部に戻るかどうしようか迷って先輩に相談してところ、声をかけていただのが、いまはもう大監督になっちゃいましたけど、瀬々敬久さんでした。瀬々監督と出会いを経て、いまに至ります。

──卒業後、桑沢の友人のみなさんは就職されていきましたか。

川瀬 わりかしふらついている人間もいましたよ。なかには、いまもアーティストとしてやっている中島崇もいれば、カレー屋さんになったやつもいる。千駄ヶ谷のヘンドリックスというお店です。若林(タケシ)というんですが、彼は同級生の中村(ジョー)とハッピーズというバンドをやっていて、中村はいまでも曽我部(恵一)さんなどとライブしています。音楽系ではスカパラでギターを弾いている加藤隆志もそうです。

──会社に就職する以外の道も選択肢に入っていそうな雰囲気です。

川瀬 いまほど世の中もカリカリしていなかったですからね。なんか大丈夫──みたいな感じはあったと思います。

──現在は生涯年収から逆算して人生設計を組み立てる時代だと思います。

川瀬 そうなんでしょうね。僕は結果的に俳優になっただけで、なろうなんて思っていたら、到底なれなかったと思いますよ。

──そう思われますか。

川瀬 なりたい自分があったらちょっと無理です。流された結果ですから。それこそデザイナーになるでもなんでもいいんですが、一念発起して東京に出て来られる方はすごいと思います。僕なんか地方にいたら普通に、ワンボックスにエアロパーツつけて家族7人で暮らしていたんじゃないですか(笑)。

──空族の世界ですね(笑)。

川瀬 (うれしそうに)そうですね(笑)。あいつらにも旅に連れていってもらっている感覚があって、自分の主体性がそこまで強くなくてよかったな、と思う理由です。ただ出会っている人間は正しいというか、ライトスタッフになっている気がします。それはちょっと誇れることかもしれない。

──川瀬さんが俳優として活動を開始された1990年代の映画界ではVシネマもひとつの潮流としてありました。

川瀬 先日、ハーバード大で日本映画を研究している知り合いで、もともとニッポン・コネクションを立ち上げたメンバーでもある、アレクサンダー・ツァールテンという人がいるんですが、彼に「うちに台本たまっちゃって困っている」と漏らしたら、「それならハーバードが所蔵するよ」といわれて驚きました。僕自身はたいしたものじゃないけど、自主映画やVシネという日本映画の変遷を経験しているのかもしれないとは思いました。

 それに、1990年代からゼロ年代初頭にいたるまでにつくられた日本映画は、メジャー作品も含めて、フィルムアーカイブが存在しない作品がすごく多いんです。バブルが弾けて、無数にあった横文字の制作会社がツブれた挙げ句、素材をどうにもできなくなり、失われた作品が多々あります。黒沢清さんのようにごく少数の作家の方がアーカイブでみられているくらいで、Vシネマでいえば僕らがつくってきたVHSはほぼ廃版です。これらの作品は、現場ではフィルムで撮影していますが、納品はビデオなのでフィルムがあったとしても未編集で上映できないんですね。ましてや、東京現像所も閉鎖になってしまい、ひきとりに来ないフィルムが山のようにあるわけです。ひきとりたくても、会社がないからどうにもできない。僕はたいしたことはできないけど、映画評論家の寺脇研さんに連絡して、なんとかならないのって。それで幾ばくかはフィルムセンターに寄贈されたみたいです。

40にして立つ?

──90年代後半からカメラの前に立つようになって、俳優としての自覚が芽生えるのはいつくらいでしたか。

川瀬 40です。

──意外と最近ですね。

川瀬 先輩からいわれていたんですよ。30代は地獄だぞと。でも40になったらなんとかなると。

──どういう意味ですか。

川瀬 俳優のメインロールは20代だったりとかすることが多いじゃないですか。

──それはなんとなくイメージがつきます。

川瀬 それが5年、10年経って30代になると、それなりにいろんなものを残してきたはずなのにゼロカウントになるんですね。「30代は地獄」というのはそのことに自覚をもてということだと思います。だからといってがんばりようもないですけどね。俳優は待つ仕事でもありますから。

──その状況を切り抜けたのはいつごろですか。

川瀬 冨永(昌敬)くんの『ローリング』(2015年)だとか『シン・ゴジラ』(2016年)前後かな。でもそこまでいくと、利口なヤツらは辞めて全体のパイが減って、ただ残っていただけなんですよ。ちょうど40超えたあたりから、どこの現場に行っても、どこそこの現場で一緒でしたと、スタッフなりキャストの方に声かけてもらえるようになったんですね。そのとき、あっ、やっと職場に認められたのかもしれないと。だから自覚が芽生えたのは恥ずかしながら40代です。

──冨永さんの『ローリング』は川瀬さんのナレーションが印象にのこりました。

川瀬 佐藤慶みたいにやれということかと思って「私は──」みたいな声を出しました(笑)。

──いい声だと思いますよ。

川瀬 きっと冨永くんもそう思ってくれたんでしょうね。映画自体はすごくヘンな話だけど、ノワールの要素もあるし、冨永くんらしいオリジナリティのある作品だったと思います。そこに触れたこと、もうひとつ転機といえば、その前の富田克也たちの出会いですかね。『国道20号線』(2007年)をみた衝撃で、『サウダーヂ』(2011年)という映画に彼らが呼んでくれて『バンコクナイツ』(2016年)にいたるわけですから。いまも新作、あいつらは粛々と待機中ですけど、それまでにない映画づくりのかたちを模索していて、いまの業界の内側のセオリーで汲々としてやっている人たちばかりじゃなくて、外の世界を感じる映画をつくっているヤツらと一緒に走れたりしたから、人が気づいてくれたのかもしれないです。

──空族が映画を撮りつづけていることは大袈裟ではなく、ひとつの希望だと思いますよ。

川瀬 『サウダーヂ』が2011年なので、彼らに直接会ったのは2009年とか10年ですが、僕らが映画をはじめた90年前後の雰囲気をもっているヤツらにひさしぶりに会ったというのを実感したんですね。彼らは空族というチームをつくって、それで映画をつくるという。誰かが手を挙げて終わったら解散する一般的なやり方じゃないですよね。作家集団としてやっていくんだと。これは90年代にはまだいた、映画を志向しているフィルム時代の人たちの感覚に近かったし、運命共同体でもある。次作もすでにうっすらと声がかかっているんですけど、あいつらとやるとなると2〜3ヶ月かかりきりになるのか(笑)と思いつつ、それを待っている自分もいるんです。声かかんなかったら、それはそれでさびしいですし(笑)。

──常連ですから。

川瀬 でも『サウダーヂ』なんか、出演していた田我流がアーティストとしても世の中に出ていって、映画が総合芸術であるということをちゃんとしめしてくれてもいると思うんですね。ある部分は政治的でもあるし、ある部分はエンタメでもあることをちゃんと標榜してやっている自主作家だと思います。いまは映画がエンタメに大振れしている感じするんですよ。それもわるくはないんだけど、そればっかりも楽しくないかなというのは、老害的な意見かもしれないですけど、ちょっとありますね。

ライトスタッフにめぐりあう力

──エンタメ大振りはお客さんのニーズでもありますよね。

川瀬 ショート映画などが話題になったのもそうですけど、みんな時間がないし、興味の対象が多岐にわたっているからそうなるんでしょうね。もっというと、僕がたとえばいま桑沢に入学したら、映画をしていたかといえば、自信ないですもん。

──時代状況や人的交流を含めて、さまざまな要素の化学反応の結果、そうなったということなのかもしれないですね。

川瀬 『ピノキオ√964』(1991年)という福居さんの1本目の長編にスタッフとしてかかわったんですが、エンドロールで自分の名前が上がってきたときに決まった気がします。映画の中に入っちゃったんですよ、そのときに。

──『ピノキオ』というのが象徴的ですね。

川瀬 『鉄男』でもなく(笑)。ピストルズに対するディスチャージみたいなものかもしれません(笑)。もともとメインストリームではないのかったものが、瀬々さんとの出会いで本流に触れたことになるのかもしれません。

──川瀬さんは瀬々監督の映画でも常連のおひとりですが、監督とはどのような関係性ですか。

川瀬 いまでも憶えていますが、新宿のいまはなきとある喫茶店で「おまえさ、どうせできないんだから」と瀬々さんにいわれたんです。これ以上の殺し文句ないですよね。だって、できなくたっていいってことじゃないですか。だけど、おまえが来てくれりゃあ、という話じゃないですか。それはちょっと意気にも感じるし、そんな自由な世界があるんだとも思いました。それがたぶんプロになるか否かの瞬間だったと思うんです。ここでもライトスタッフに会えていたんだなという気はします。

──現場でダメ出しなどを受けますか。

川瀬 自由ですよ。瀬々さんの口から直接聞いたわけではないですけど、自分が依頼しているのだから役者に期待すべきだろうということなのかもしれません。瀬々さんはご自分でも、あるいは井土(紀州)さんと共同でホンを書かれることもありますが、昔よくいっていたのは、それ(脚本)を放り投げるようにしたいんだということでした。事件をあつかうことが多いからかもしれませんが、たとえばニュースをみていて、誰かが誰かを殺しました、動機はこうです、といわれても、いや本当にそうかと。動機なんて、そんなふうにわかるのだろうかということにフォーカスがあたるのが映画だと瀬々さんはおっしゃっていました。もっといえば、撮ったあげく、わからないということに触れる作業。本当のところはわからないということに触れる作業にどれだけ真摯に向き合えるかが大切だという気が、瀬々さんをみているとしてきます。

映画の未来は「もう知らん」

──この10年、2000年なかば以降、出演作が増えていますよね。

川瀬 おかげでいちおう生活できるぐらいにはなりました。

──苦しいときもありましたか。

川瀬 苦しいなんてもんじゃないですよ。なにもないときは本当になにもありませんから。

──そういうときはなにかほかに仕事をやるんですか。

川瀬 それこそデザイナーの友だちの下請けみたいなことをやったこともあります。指示されたことをこなす仕事ですね。あと、手を動かす仕事でいえば、テーマパークの山車(フロート)の色塗りとかやっていました。20代から30代に入ってもやっていましたね。

──不安は感じなかったですか。

川瀬 生活不安はつねにありましたけど、映画の世界にいても、いまおか(しんじ)さんとか、仲間うち合わせて20円みたいな時代もあったんで(笑)、どうせダメだしみたいな感じでした。

──ありきたりな不安は乗り越えたということかもしれないですね。ところで桑沢の後輩たちやこれから桑沢に入ろうという進学希望者に、川瀬さんのような仕事をしたいといわれたらどう応えますか。

川瀬 必ずいっているのは「つづけていれば絶対、どうにかなります」ということです。ただ「なりたい自分じゃないかもしれません」──この一点だけです。たとえば松田優作さんとか、こんな人になりたいとかっていうのがあったら非常につらい仕事だと思います。僕は本当になりたい自分がなかったからつづけられたし、地方に仕事で出かけると、(この仕事を)辞めたヤツに「迎えに行くよ、飲みに行こうよ」と誘ってもらって、そいつが乗っている車がベンツだったりするんですよ。そっちのほうがいいな、と思うんですけど(笑)。でもそれだけ、自己実現の気持ちが強い人たちがたくさん来る職場なので、ほかの仕事でも成功できる人はいっぱいいると思いますよ。だけどこの仕事をつづけるのって、どれだけ映画が好きかだし、好きであれば、興味をもってやれれば、人から規定される川瀬陽太として認知されて仕事にはなるんですね。

──それがその前に思い描いていた自分でないとしても、ということですね。

川瀬 それでもいいのであれば、ということですよね。とくに日本にはアンチエイジングの信仰のようなものがある気がするんですね。女の人に年をとらせないというか、その子と似たようなスペックをもっている若い子にロケット鉛筆のように役をガチャッンコするじゃないですか。カワイイの国なので、そうなのかもしれないですが、僕のなかではカワイイやイケメンの話ばっかりしているとバカになっちゃうよ、と老害らしく思うことはあって、最近でもやっぱり池脇千鶴さんとかちゃんと年をとれる人がいるので、そういう人がどんどん出てくればいいなって思っています。

──年をとらないほうが俳優にとっても選択肢が狭まりそうですけどね。

川瀬 それでも作品にとってその役は必要だから、誰もが田中泯さんや、樹木希林さんに仕事を頼んできたわけです。僕はスタッフが一緒に年をとれればいちばんいいと思います。監督だって年をとっていますから。そこらへんに妙な矛盾があるんですよ。

──空族のくだりでおっしゃった娯楽性と作家性の兼ね合いも大きいかもしれません。

川瀬 そうかもしれないですね。いまでは映画館はキラキラ系の予告篇ばかりですが、無理がありますよ。もちろん商売だからやっているというクールな判断もあるとしても、配信という第三極が出てきて、海外の面白い作品がいっぱいみられる状況になってきていますしね。以前とある現場の立ち上げのさい「これ全世界配信ですから」ととくとくと語った方がいらしたんですけど、僕は「それ水道管が通ってるだけで蛇口ひねらないと水は出ないよ」と思っちゃったんですね。どうせ全世界配信なら、日本のよさというとヘンな言い方になっちゃいますけど、アジアの一ヵ国としての日本で撮れた映画のほうがいいと思うし、東南アジアや台湾で活動している富田(空族)とかのカメラの前に身を置いてみるとか。内向きの文化ばかりじゃやせ細る一方だと思っています。

 ただ僕は日本映画をめぐる状況に、そこまで楽観も悲観もしていません。端的にそう考えることに意味はなくて、次どうするかということだけを考えて、世間にどう思われていても、もう知らんと(笑)。最近の合い言葉ですよ。「おれはもう知らん」(笑)。(了)

(2024年12月18日 桑沢デザイン研究所にて / 撮影:塩田正幸)

Profile
川瀬陽太(かわせ・ようた)
1969年神奈川県出身。桑沢デザイン研究所ビジュアルデザイン科在学中より映画制作に携わる。福居ショウジン監督『ラバーズ・ラヴァー』(1996年)で役者デビュー。主な出演作に瀬々敬久監督『64(ロクヨン)』『菊とギロチン』、富田克也監督『サウダーヂ』『バンコクナイツ』、主演作に『天然☆生活』『激怒』など。『ローリング』と『犯る男』で2016年度第25回日本映画プロフェッショナル大賞主演男優賞受賞。近作に石井岳龍監督『箱男』、井土紀州監督『痴人の愛』など。2025年の公開作品に『BAUS 映画から船出した映画館』(甫木元空監督)、『逃走』(足立正生監督)など。
第二次ベビーブーマー
出生率の高い時期に生まれた人ないし世代。第二次ベビーブーマーとは、戦後直後にあたる1947〜1949年(昭和22〜24年)の第一次ベビーブーマーの子ども世代。団塊ジュニアとも。
会田誠
(あいだ・まこと 1965〜)新潟県出身の現代美術家。東京藝術大学油画専攻卒業。絵画を中心に、写真、立体、パフォーマンス、インスタレーション、小説、漫画、都市計画など、多岐にわたる表現領域で、問題提起的な活動をつづけている。
ヤノベケンジ
(1965〜)幼少期の遊び場であった大阪万博跡地を原風景とする「現代社会におけるサバイバル」をテーマに、文明批判とキッチュさをかねた機械彫刻を世に問いつづける大阪府出身の現代美術家。京都芸術大学教授。
『i-D』
1980年創刊の英国のストリートカルチャーマガジンの日本版は1991年に創刊し、93年に休刊。2016〜19年にも日本版の刊行があった。
『Studio Voice』
1976年創刊の月間のカルチャー雑誌。2009年に休刊後、不定期に刊行をつづけている。質問者は以前同誌の編集長をつとめていた。
CSV渋谷
1985年から1988年まで渋谷公園通り沿いにあったオーディオ&ヴィジュアル・ショップ。ダイエー・グループによる設立で、1階はレコードなどのソフト、2階では楽器や映像機器の売り場だった。
渋谷系
1990年代初頭、東京の渋谷を中心に流行したポピュラー音楽にかんするムーブメントの総称。川瀬氏の発言に後出するピチカート・ファイヴやフリッパーズ・ギターが代表格。
フランス・ギャル
(France Gall 1947〜2018)作詞家の父と合唱団の設立者の母のあいだにパリで生まれ、1963年に「恋のお返し」でデビュー。65年、セルジュ・ゲンスブールが作詞作曲した「夢見るシャンソン人形」が世界的なヒットを飛ばし、日本語詞による国内盤もリリースされた。この曲はその後も多くのカバーを生み、ギャル自身のファッション性、ゲンズブールをはじめとした60年代文化の再評価の機運も手伝い、渋谷系と重なるかたちでリバイバルした。
ムエタイ
古代に起源をもつというタイを発祥とする格闘技。1980年代後半から90年代前半にかけての異種〜総合格闘技ブームのなかで、打撃系の一種として一般的な認知度を高めた。試合前にワイクルーと呼ばれる儀礼的な型を行う。
中原昌也
(なかはら・まさや 1970〜)東京出身の音楽家、映画評論家、小説家。暴力温泉芸者名義によるノイズ・ミュージシャンとしての活動と並行し、小説『あらゆる場所に花束が…』で2001年の第14回三島由紀夫賞、『名もなき孤児たちの墓』(2006年)で野間文芸新人賞、『中原昌也 作業日誌 2004→2007』(2008年)でBunkamuraドゥマゴ文学賞を受賞。映画評論集に『エーガ界に捧ぐ』など。最新刊に『偉大な作家生活には病院生活が必要だ』(河出書房新社)。現在はヘアスタイリスティックス名義での音楽活動を行う。
ネヴィル・ブロディ
(Neville Brody 1957〜)ロンドン出身のグラフィックデザイナー。1980年代に「The Face」「Arena」などのファッション〜ライフスタイル誌や、23スキドゥーやスロッビング・グリッスルなどをリリースするフェティッシュ・レコーズのアートディレクターとして活躍。1991年には雑誌「FUSE」を創刊するなど、時代を牽引した。現在の東京ヴェルディのロゴもブロディ作。
石井岳龍
(いしい・がくりゅう 1957〜)福岡県出身の映画監督。日本大学芸術学部在学中に制作した8ミリ映画『高校大パニック』(1976年)で注目を集め、1980年の『狂い咲きサンダーロード』が学生映画にもかかわらず全国公開。82年の『爆裂都市 BURST CITY』では陣内孝則、大江慎也、町田町蔵(現・康)、泉谷しげるなど、ミュージシャンがメインキャストをつとめた。2010年に聰亙(そうご)から岳龍に改名。近作『箱男』(2024年)に川瀬氏が出演。
塚本晋也
(つかもと・しんや 1960〜)東京都出身の映画監督、俳優。日本大学芸術学部卒業後、演劇活動を経て、劇団仲間と制作した1989年の『鉄男』がローマ国際ファンタスティック映画祭のグランプリを受賞。『東京フィスト』『バレット・バレエ』などを経て、2010年に全編英語台詞による『鉄男 THE BULLET MAN』を公開。近作に大岡昇平原作の『野火』、時代劇の『斬、』、終戦直後を舞台とした『ほかげ』など。
福居ショウジン
(ふくい・しょうじん 1961〜)兵庫県出身の映画監督。石井聰亙作品で助監督をつとめ、1991年に『ピノキオ√964』を公開。1996年の『ラバーズ・ラヴァー』は川瀬氏の初出演作。ホラー『伝染』『怨廻(出れない)』『the hiding -潜伏-』『S-94』など、海外での上映も多い。
山本政志
(やまもと・まさし 1956〜)大分県出身の映画監督。1982年の『闇のカーニバル』がベルリン〜カンヌ映画祭の連続上映をはたし、町田町蔵(現・康)が出演し、じゃがたらが音楽を担当した87年の『ロビンソンの庭』が多くの映画祭で賞を受ける。そのほか作品に『アトランタ・ブギ』『JUNK FOOD』『水の声を聞く』など。
角川映画
現在のKADOKAWAの前身、角川書店が制作を開始した映画および映画を元にした本や音楽などとのメディア連動企画の総称。1976年の市川崑監督による『犬神家の一族』を嚆矢に、『戦国自衛隊』『セーラー服と機関銃』『時をかける少女』などがある。文脈によっては大手映画会社と異なる独特の作風を含意することもある。
内田裕也
(うちだ・ゆうや 1939〜2019)兵庫県出身のロック歌手、俳優、政治活動家。1959年に日劇ウエスタンカーニバルでデビュー後、内田裕也とザ・フラワーズ〜フラワー・トラベリン・バンドでの活動を経て、1970年代後半からは俳優業にも進出。若松孝二監督『餌食』『水のないプール』、崔洋一監督『十階のモスキート』などで存在感を放った。1991年の東京都知事選に出馬。妻は俳優の樹木希林、娘はエッセイストの内田也哉子。
シネアミューズ
かつて渋谷区道玄坂2丁目「フォンティスビル」4階にあったミニシアター。1995年に営業を開始し、2008年に改称し再出発するも、2009年に閉館した。
飴屋法水
(あめや・のりみず 1961年〜)山梨県生まれの現代美術家、演出家、劇作家。唐十郎の状況劇場を経て、1983年に劇団、東京グランギニョルを旗揚げ。1990年代には美術家に転身。行為的、概念的作品で異彩を放つとともに、2000年代には演劇に復帰。パフォーマーとしても、大友良英、小山田圭吾、青葉市子などとの共演歴がある。
瀬々敬久
(ぜぜ・たかひさ 1960〜)大分県出身の映画監督。京都大学在学中より自主映画の制作をはじめ、佐藤寿保、サトウトシキ、佐野和宏らとピンク四天王の異名をとる。2000年代以降は『感染列島』『ドキュメンタリー頭脳警察』『ヘヴンズ ストーリー』『アントキノイノチ』『64-ロクヨン』『友罪』『菊とギロチン』など、重厚な社会派人間ドラマの作り手として定評がある。
中島崇
(なかじま・たかし 1972〜)桑沢デザイン研究所写真研究科卒。多様な素材を用い、場と人と事物と空間の関係を問い直すインスタレーションを制作する、東京出身の現代美術家。
曽我部恵一
(そかべ・けいいち 1971〜)香川県出身のシンガーソングライター。1994年にメジャーデビューしたサニーデイ・サービスで7枚のアルバムを残したのち、2000年代以降はソロ活動へ。下北沢で「ローズ・レコード」を設立し、自身の作品を含め、多数の作品を世に送り出している。中村ジョー&イーストウッズはここからのリリース。
スカパラ
東京スカパラダイスオーケストラの略称。加藤隆志氏は2000年に正式メンバーとして加入。
空族
「くぞく」と読む。映画監督の富田克也、映画監督で脚本家の相澤虎之助、撮影・編集の高野貴子、録音・音響効果の山﨑厳らを族員とする映画作家集団。郊外や地方都市、タイやラオスや台湾を舞台に、そこに生きる人々の姿をリアルに描き出した『国道20号線』『サウダーヂ』『バンコクナイツ』などの作品は高い評価を得た。
Vシネマ
劇場公開や放送を前提としない映像ソフト専用の映画の総称で、このジャンルで先行した東映ビデオのブランド名をジャンル名に転用したもの。主にレンタルビデオ店の貸出用で、1990年代に最盛期をむかえ、極道映画やホラー映画の新しい潮流の原点となった。
ニッポン・コネクション
2000年以降、ドイツのフランクフルトで開催する映画祭。後述のアレクサンダー・ツァールテンは2002〜2010年のプログラムディレクター。
黒沢清
(くろさわ・きよし 1955〜)兵庫県生まれの映画監督。立教大学在学中に蓮實重彥の薫陶を受け、万田邦敏らと映画サークルで活動。『神田川淫乱戦争』で1983年にデビューし、90年代にはVシネマに活動の場を広げ、パッケージ化した作品のなかには、2024年にリメイクした『蛇の道』などもある。主な作品に『CURE』『カリスマ』『岸辺の旅』『スパイの妻』など。近作に『Chime』『Cloud クラウド』。
寺脇研
(てらわき・けん 1952〜)福岡県出身の元文部官僚。映画評論家。著書に『それでも、ゆとり教育は間違っていない』『文部科学省─「三流官庁」の知られざる素顔』など。
冨永昌敬
(とみなが・まさのり 1975〜)愛媛県生まれの映画監督。2002年の水戸短編映像祭グランプリを受け、2006年『パビリオン山椒魚』で長編映画デビュー。主な作品に、太宰治原作の『パンドラの匣』、本谷有希子原作の『乱暴と待機』、編集者末井昭の自伝を元にした『素敵なダイナマイトスキャンダル』、ピアニスト南博のエッセイが下敷きの『白鍵と黒鍵の間に』など。川瀬氏は2015年の『ローリング』で主要な役を演じている。
『シン・ゴジラ』
庵野秀明脚本・総監督、樋口真嗣監督・特技監督による2016年の特撮映画。のちの「シン・シリーズ」のはじまりとなった。川瀬氏は新聞記者役で出演。
佐藤慶
(さとう・けい 1928〜2010)福島県出身の俳優、ナレーター。『青春残酷物語』や『儀式』などの大島渚作品、新藤兼人の『鬼婆』、勝新太郎の『座頭市の歌が聞える』や、松田優作の『殺人遊戯』など、多くの作品に出演した昭和の名バイプレイヤー。小林正樹の『東京裁判』ではナレーションをつとめている。
田我流
(でんがりゅう 1982〜)地元山梨を拠点とするラッパー。2008年の『作品集 JUST』でデビュー後、山梨を舞台にした空族の映画『サウダーヂ』に出演。ソロアルバムに『B級映画のように2』、バンドプロジェクトによる『田我流とカイザーソゼ』など。ヒップホップグループstillichimiyaの一員。
『鉄男』
塚本晋也の注を参照
ピストルズに対するディスチャージ
1970年代後半におこったパンク・ムーブメントにおいて、先行したセックス・ピストルズ(1975年結成)に対する後発としてのディスチャージ(1977年)を対比した喩え。
井土紀州
(いづち・きしゅう 1968〜)三重県出身の映画監督、脚本家。主な監督作品に『百年の絶唱』『LEFT ALONE』『ラザロ-LAZARUS-』『卍』。脚本担当作に、瀬々敬久監督の『64-ロクヨン』、山戸結希監督『溺れるナイフ』など。最新監督作は2024年の『痴人の愛』。
いまおかしんじ
(1965〜)「ピンク七福神」のひとりに数えられる大阪府出身の映画監督だが、林由美香が主演の『たまもの』、愛染恭子との共同監督による『白日夢』から、阪神淡路大震災のその後の人間模様を描いた2020年の『れいこいるか』、ロードムービーの『遠くへ,もっと遠くへ』など、作風は多彩。
松田優作
(まつだ・ゆうさく 1949〜1989)山口県出身の俳優。文学座を経て、1973年の刑事ドラマ『太陽にほえろ!』でのジーパン刑事役が話題に。翌年の『あばよダチ公』(澤田幸弘監督)で映画初主演。1979年の村川透監督による角川映画『蘇える金狼』、テレビドラマ『探偵物語』などで人気を決定づけた。80年代は鈴木清順監督の『陽炎座』、深作欣二監督の『華の乱』など、文芸作品にも出演し演技の幅を広げるも、1989年40歳で死去。死の直前に公開したリドリー・スコット監督によるハリウッド映画『ブラック・レイン』が遺作となった。
ロケット鉛筆
プラスチック製の土台に鉛筆の芯をつけたものを円筒形のペンに複数個格納したもの。芯が短くなると、土台を外し、ペンのお尻から入れると新しい芯が前に押し出される仕組み。1960年に台湾の洪勉之が開発。国内では1970〜80年代に流行したのち、ブームは下火になったものの現在も入手可能。
池脇千鶴
(いけわき・ちづる 1981~)大阪府出身の俳優。1997年、オーディション番組をきかっけにCM出演をはたし、市川準監督の『大阪物語』(1999年)で映画デビュー。2001年のNHK連続テレビ小説『ほんまもん』に主演。佐藤泰志の小説を映画化した2014年の『そこのみにて光輝く』で第38回日本アカデミー賞優秀主演女優賞。そのほかの出演作に、『ジョゼと虎と魚たち』『ストロベリーショートケイクス』『半世界』など。
田中泯
(たなか・みん 1945〜)東京都出身のダンサー、舞踊家、俳優。1970年代前半より独自のダンスを試み、1978年のパリ秋の芸術祭で海外デビュー。80年代なかばより、拠点を山村へ移し、農業を土台に身体性を追求する。音楽家をはじめ、他ジャンルとの共演も多く、2000年代以降は役者としても活動をつづけている。俳優としての主な出演作に『たそがれ清兵衛』(山田洋次監督)、『PERFECT DAYS』(ヴィム・ヴェンダース監督)。
樹木希林
(きき・きりん 1943〜2018)東京都出身の俳優、タレント。1960年にテレビドラマへ出演をはじめ、1970年の『時間ですよ』で人気を博す。70年代末に芸名を悠木千帆から樹木希林にあらため、78年郷ひろみとのデュエットソング「林檎殺人事件」がヒット。出演映画に、川瀬直美監督『あん』、是枝裕和監督『万引き家族』など多数。夫はロック歌手、俳優の内田裕也。