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潮田登久子

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Interview (6)

潮田登久子 Tokuko Ushioda

写真家の「芽」と「眼」を育んだ桑沢の日々 桑沢に通って何の役に立ったんだろうと思ったりしたけれど
基礎は桑沢で習ったことだったんです

扉を開閉した冷蔵庫を正面からとらえた〈ICE BOX〉、稀覯本(きこうぼん)と雑本とを問わず、幾多の書物に、その外観からアプローチした〈ビブリオテカ〉シリーズなど、潮田登久子さんの作品には写真の時流や手法に左右されない芯のようなものを感じます。唯一無二ともいえる潮田さんのスタイルはいかにして生まれ、今にいたるのか──。土台となったのは桑沢での日々だと潮田さんはふりかえります。写真はもちろん、デザインについての予備知識もないまま、ふと思い立って飛び込んだ桑沢デザイン研究所という場で、出会った先生や仲間たち、何よりも写真という表現手段はいかしにてライフワークに実を結んだのか。潮田さんの近刊となる写真集『マイハズバンド』の被写体でもある写真家の島尾伸三さんにもご登場いただき、お話をうかがいました。

Contents

人がギュウギュウ詰めの教室と、恩師との出会い

──資料によりますと、潮田さんが桑沢を卒業されたのは1963年となっています。

潮田 赤坂にある私立の女子校を卒業して花嫁修行ぐらいのつもりで1960年に桑沢に入りました。当時は花嫁修業が当然で、お茶やお華を稽古します。それはちょっとつまらないなという感じで、インテリアや工業デザインを勉強して生活を楽しくできたらというほどの軽い気持ちでした。デッサンも平面構成もやったこともないのに決めたんです。桑沢在学時はオリンピックに向けて、丹下健三 さんが代々木の吊り天井の体育館を作るというので、元々そこにあったワシントンハイツはまたたくまに更地になって、それを眺めながら勉強していました。東京オリンピック開催の前年に卒業です。

 教室は満員でギュウギュウ詰めでしたよ。高校卒業したばかりで詰襟の男の子、セーラー服の女の子、藝大に再チャレンジしようとしている人、大学を卒業したり仕事を持っているけどさらにデザインを勉強しようという中年の人たちもいて、熱気がすごいんです。

──思いたったとき、なぜ桑沢だったのでしょう。

潮田 授業料が安かったからです。

──即答でしたね(笑)。

潮田 試験も作文と国語ぐらいで、なんとか合格できました。入ったは良いけど、デザインの勉強をしてきた他の学生とではレベルがちがう。1年か2年生の時に、石元泰博先生のデザインの基礎として写真の授業があって、学校のカメラを借りて課題を撮るんですね。「空」という課題で、空に向かって何パーセントか景色を入れる、撮影したフィルムを印画紙現像してハイコントラスト・プリントを作るという課題があったり、テクスチャーを撮ったり、街に出て人物を撮ったりしました。社会や予備校で勉強してきた人たちも、そういうのはやっていないですから。

──写真では同じスタートラインに立てたということですね。

潮田 そう! だってK2の長友啓典さんが同級生ですよ。イラストレーターの小島武さんとか、すでに活躍している方もいて、私なんかミソッカスなんだけれども、写真ならかろうじて彼らと対等になれるって、友だちと話していました。

──それまで写真を撮ったことは?

潮田 カメラに触ったこともなかった。友だちのを借りて、かわりばんこに使いました。いよいよ自分のカメラが欲しいなと思って父に買ってもらうんです。横浜の高島屋デパートの4階の売り場に知り合いがいて、安く買えるからというので、カメラを買いに行ったんですよね。アサヒペンタックスを買いました。当時は街に出て人物を撮るというのが面白かったですね。

──人物を撮るというのも石元先生の課題ですか。

潮田 通行人に自分が何者か名乗って、こういう課題があるので撮らせてください、とお願いするんです。男性の学生はだいたい怪しまれ断られるんです。私は策を練って、渋谷のハチ公口の交番の脇なら声かけた人に怪しまれず、何かあったら私も断ることができるという作戦ですね。

──研究科の頃ですね。研究科に進まれたのは写真をもっと勉強したかったということでしょうか。それが1960年前半ですか。

潮田 3年目が研究科で、大辻清司先生の授業があったんですね。行けるとしても写真しかないわけです(笑)。先生はね、静かな方でした。こっちから何か言わないとしゃべらない。当時の桑沢には大辻先生、石元先生、リアリズム写真集団の目島計一先生とかすごい人がたくさんいました。大辻先生はご自宅が学校のすぐそばで、授業が終わると学生たちが押し寄せて、高梨豊さんや新倉孝雄さんとか、卒業生で助手役の人たちもいたのだと思うんです。そういった人たちと先生と、奥さまの誠子さんとお子さんとが、木造家屋の部屋にギュウギュウ詰めでああじゃこうじゃ言っている、そのすみっこに私はいるんです。

──面倒見のいい先生ですね。

潮田 ぜんぜん面倒見てくれません(笑)。就職の世話なんかしないし、卒業式の先生の餞(はなむけ)の言葉は「お天道さまとお米の飯があれば、どうにかやっていけますよ」というものでしたからね。それを毎年卒業生に言ってるのよ(笑)。それでも先生にくっついて行ったりするわけですよ。誠子さんがわけへだてなく接してくれたお陰です。先生が亡くなった後も、アトリエを開放してね。先生の本だとか貴重なモノから何だかわからないのまでがいっぱいあって、撮らせてほしいとお願いしたらどうぞ、と鍵を開けていただいたんです。それらを撮って『先生のアトリエ』(ウシマオダ、2017年)にまとめたんですね。先生が亡くなられてから個人レッスンを受けているような贅沢な時間でした。

潮田登久子『先生のアトリエ』(ウシマオダ、2017年)より

──大辻先生のご自宅ではみなさんで写真談義を交わされたんですか。

潮田 ロバート・フランクの写真集『アメリカ人』は大辻先生のご自宅ではじめて見ました。高梨豊さんがお土産でプレゼントしたとか、フランスで出版した『アメリカ人』があったのは憶えています。みんなで一緒に穴の開くほど見ましたね。ボロボロになるまで見た気がします。写真の授業はこの頃から少しづつ耳に入って来るようになりました。ポール・ストランドの写真集を買ったりとかね。

 写真についてトライXのトライってなんだろう?っていうくらいでしたから。フジフイルムとさくらフィルムでもASA感度400のフィルムが出始めたころで、アメ横のアメリカ物資を扱っているところで100フィートのフィルムを買って、店先のバケツに放り投げてある空のパトローネを拾ってきて、その長巻のフイルムを自分で切って使うんです。だいたい両手広げた長さが35〜36カット。その要領で測ってね。リールに巻いてやっていましたよ。印画紙はあそこが良いとか安いと言いながらね。ヨドバシカメラのない時代で、宮崎カメラっていうのが神保町のあたりにありましたね。

──桑沢に助手として何年勤められたんですか。授業をサポートする立場ということですね。

潮田 研究科を出たあとに助手をすることになります。真面目な学生だったから、先生たちのお手伝いを真面目にやるだろうと思われたんじゃないですか。それで卒業後も桑沢に何年かいたんですね。3〜4年かな。その後、できたばかりの東京造形大学の非常勤講師に誘われたんですね。テキスタルデザインの作品を写真で記録するという仕事です。そこで石元先生の時にやったテクスチャーを撮るとか、静物を撮ったり、時間によって影を使ったり、そういうのをやりましたが、そんな頃に島尾と一緒になったんです。

写真を始めた頃の潮田氏

激動の写真史の傍らで

──パートナーの島尾伸三さんは東京造形大学を卒業されていますね。

潮田 東京造形大学で出会ったわけではなくて、島尾に本の仕事の相談を受けた時が初対面です。あの人は友だちと小さなギャラリーを作ったりしていました。私はそこには行ったこともないんです。

──はじめての個展は〈微笑みの手錠〉ですね。

潮田 1976年頃かな、人間を撮るようになって写真がたまったからニコンサロン、今はニコンギャラリーになっていますが、そこで展覧会を開いたんですね。この頃の被写体は人物ばかりですね。突進して撮るのが面白かったからね。新宿や浅草の見世物小屋、銀座でも撮りましたね。卒業してフリーの写真家というか桑沢で助手をやりながらでした。20歳後半から30歳半ばですね。

初期作品『街へ』(「微笑みの手錠」を改題)より

──桑沢の先輩である高梨豊さんがまさに同時代ですが、プロヴォーク的な潮流について潮田さんはどう思われていましたか。

潮田 興味が湧かなかったですね。遠くから見ていたという感じですね。私だけの世界に孤立したような感じ。

──それこそ大辻先生はコンポラ写真のイデオローグでしたよね。そのような潮流に対してはどう思われましたか。

潮田 わかんなかったですね。牛腸茂雄さん、関口正夫さん、佐治嘉隆さん、三浦和人さんとか、10人くらいは大辻教室に在籍していました。その時の私は助手なんです。先生と彼らについての印象といえば、先生も話さないし、学生も話さない。だけど作品は持ってくる。先生はそれをひとつひとつ丁寧に見るんです。似たような写真なんですが、どういう考えでこういう写真を撮っているのか問いながら、細かく見てくださる。みんなも静かに真剣に聞いている。私は引き伸ばし機の並ぶテーブルを背に、そういう授業の現場に居合わせた。

──大辻先生は撮影には課題を設けるんですか。

潮田 なかったと思います。

──潮田さんの興味が人物以外の写真に広がったのはどのようなきっかけがあったのでしょう。

潮田 人物を好きなように撮っていたんですが、傍若無人に撮影できるカメラが武器みたいに思えて、疑問を感じるようになったんです。躊躇しはじめると、写真が面白く撮れなくなるんですね。その頃になると、真ん中に人が入っていてちょっと離れて撮るというスタイルでした。

──お嬢さま、しまおまほさんを牛腸さんが撮影されていますね。

潮田 豪徳寺の駅ですね。子どもがまだ1歳だったか、首がやっとすわってね。当時、牛腸さんが時々うちに遊びに来ていたんですね。夕方、帰りに豪徳寺の駅まで送りに行って、駅の改札口で撮ったんですね。切符切るところがあるでしょ、あそこに乗せてね。手を離すと落ちちゃうから一瞬で撮ったの(笑)。

潮田登久子『冷蔵庫 ICE BOX』(BeeBooks、1996年)より

冷蔵庫に向き合って

──冷蔵庫を撮りはじめたきっかけについて教えてください。

潮田 1978年末から西洋館の2階の15畳ぐらいの部屋で3人で暮らし始めたわけです。共有の台所、トイレ、水場、お米を洗ったり野菜洗ったりするのも、1階に行くんですね。2階の部屋には端っこにガス台があるくらい。月に2回、住人の共有部分をお掃除をするとかね。そんな中で、これからどうなっていくんだろうという気持ちが、ときどき頭をもたげるわけですよ。暗くなって、みんなが寝静まった頃になると、中古で買ったスウェーデン製の大きな冷蔵庫のモーターが、ガッタンって動き出すんです。こんなふうになると思ってもいなかったから自分の生活を記録しようと。その冷蔵庫を開けたり閉めたりって、ブロニカのS2で定点観測のようなことを始めました。

──撮影にさいして事前の構想はありましたか。

潮田 淡々とひとつひとつ、昆虫採取するように撮ろうと思いました。私の気持ちとかそういうんじゃなくて、まず冷蔵庫ありき。開けたところと閉めたところはかならずセットで撮るというのを決めましたから、何も考えないで撮れますよね。冷蔵庫の中に面白いものが入っているとか、考えちゃうと大変だから、それはそれとして、まず冷蔵庫の全身を入れて正面から記録することに徹しました。そのうちによその家の冷蔵庫を撮り始めました。住宅事情で正面から撮れないこともありましたが。

──スクエアなフォーマットもコンセプトから自然に導き出されたんですか。

潮田 ハッセルは高いし、ブロニカのS2があって良かったですよ。中古のハッセル1台はどうにか持てたんだけど、レンズをそろえるとか、もう1台とかってなるととても無理。それも島尾がどこかに売り飛ばしてしまって(笑)。ブロニカだったら3万とか4万とか、安い中古もあって、直してくれるところもありましたから。最近は部品がなくなってきているみたいですけどね。三脚すえて1/2秒とか1秒でバッシャーンって大袈裟な音がしても不思議なものでブレないんですよね。これ(写真参照)が3〜4台あるんですね。標準や少し広角のレンズをつけて撮ります。標準レンズ付きで1.8Kgぐらい、重たいですよ。だから腱鞘炎になるわね、あっちこっち(笑)。だけど使い良いんですよ。6×6はすべてこれで通しているの。

潮田氏所有のカメラの数々

──レンズはニコンですか。

潮田 ニッコール(NIKKOR=ニコンのレンズ)が良いんです。ゼンザノン(ゼンザブロニカのレンズ)もわるくはないけど、ニコンの初期製が良いんですよ。それで撮っていたら、ボケがきれいですね、といわれたことがありますよ(笑)。

──潮田さんの「冷蔵庫」のシリーズは大辻先生の系譜を継ぐ側面があるような気がしますが。

潮田 先生には冷蔵庫の写真集ができて持って行ったけど、あまり関心を示されなかったですよ。私は先生の影響をすごく受けていると思うんだけれど、直接指導されたとかっていうのはないですね。私が何か言っても「そうですかねえ」って、会話は噛み合わなかったですね。

潮田登久子『本の景色 BIBLIOTHECA』(幻戯書房、2017年)より

本は見るもの

──事物を対象にした写真ということでいえば、その後、本を撮影されたシリーズも、手がけておられます。本と冷蔵庫に相違点はありますか。

潮田 本も冷蔵庫も、身近にあるものをモチーフにすることから始まっています。そんなにちがわないと思っています。オブジェとして撮ったものに、島尾が調べものをして肉づけするんです。社会や時代とつながっていることが私には大事。

島尾 潮田さんが撮った写真の一部に写っている字などから、著者、発行年、おおよその内容、ページ数とかいったことを調べていくんです。この人はちょっとしたメモしか残さないから。

潮田 撮影に夢中になると、メモを忘れてしまう。本のシリーズでは島尾が原稿を執筆した『ビブリオテカ 本の景色「撮影ノート」』(ウシマオダ、2021年)という解説本があるんですね。この解説が好きだという方もいますからね。島尾は撮影には来ない。

──おふたりでは行かれないんですね。

潮田 去年1年かけて、神奈川県立図書館の前川國男館の改修にさいして、建築と収蔵している本を撮影したんですが、その時にはついて来てもらいましたが、『本の景色』の時は一人でした。ブロニカ2〜3台と三脚、35ミリのカメラも2台、キャリアーで引いていくんです。そう考えると、その頃まではかなり体力あったんだなと思いますよ。本の世界には魅力があるから、行っちゃうのよね。

──すごい行動力ですね。

潮田 そうね、遊びですよ。自由に撮らせてもらってるから。本を撮ってるって友だちに話したら、夫が図書館で仕事しているから聞いてあげるわよって、そしたら国会図書館の副館長だったの。国会議員のための図書館なんですって。それすら知らないで行っているわけですよね(笑)。ちょうど国会が開かれていない時期で、自由に撮ってくださいと言われて、地下2階だったと思うんですけど、本を修復する部屋があって、漫画本から経文のような貴重本までいろいろ修復しているんですね。「ここを撮りたいです」といって撮らせてもらいました。

──見学でも簡単に入れてもらえる場所じゃないですよね。

潮田 ラッキーなんですよね。いまは大学図書館も稀覯本(きこうぼん)を置いてある部屋なんか入れませんけど、あのころは何度も通って撮らせてもらえました。専門家より私の方がずっと貴重な本を触ってるのよ。読まないけれども(笑)。でもね、ボロボロの本を撮ると、「満足に修復作業もできない貧乏な図書館だと思われてしまう」と言われたりするんですよね。それを聞いて逆に私は「やった!」と思うんです。私はそういうのが撮りたくて、中身を研究する人は別にいらっしゃるわけでしょ。私がなまじ、これはナポレオン何世のどういう本で──といったところで聞く人なんていやしないし、虫食いだらけのこういうのが美しいと思って撮っているだけだから。

──『本の景色』に島尾敏雄さんが『大菩薩峠』の新聞連載を切り抜いて綴じた冊子なども掲載されていますね。

潮田 (奄美大島の)浦上の島尾の家の書庫にあったんですね。写真集『本の景色』には島尾敏雄の小説『死の棘』の元になったノートも載っていますよ。ミホには内緒で書いていた日記ね。それが捨てられないまま置いてあったのね。

島尾敏雄氏の『大菩薩峠』の切り抜き帳(『本の景色』所収)

島尾 父が死んでから「裏日記がある」と言っていたんですが、誰も信じない。常々ウソつきだからね。またか、みたいなね。裏日記はその後、かごしま近代文学館が修復に2年ぐらいかけました。破片をピンセットで拾ってつなぎ合わせていくんです。

潮田 大変だったみたいですよ。破損されて読めなくなっちゃってるけど、行間を読むように、欠落した字を補いながら読んでいくんですね。誰それに会ったとか、伸三とマヤにおみやげを買ったとか、そういうのが出てくる。彼女のところに行きながら子どもにおみやげを買って帰ってきたんだな(笑)とかね。そのときの様子が想像できますよね。

外からの意匠と私の眼

──写真家ふたりがひとつ屋根の下に住まわれているのはけっこうめずらしいと思いますが、おふたりのお話をうかがっていると大変に仲睦まじいと思いました。

潮田 ハハハ(笑)。いや、そうでもないんだけれどもねえ。桑沢に通って何の役に立ったんだろうと思ったりしたけれど、基礎は桑沢で習ったことだったんです。石元先生に出会って私はデザイン向きじゃないなって思ったわけで。『マイハズバンド』は40年後に見つかった写真で構成してるんです。島尾が『まほちゃん』を撮っている側で、『マイハズバンド』を撮っていた。昼間は子どもたちが来て騒いだりしているのを、この人も撮っている。私はそのあいだ掃除したりしている。カメラを通すと目配りのちがいがはっきりしますよ。

──潮田さんが撮影するのは主に夜なんですか。

潮田 夜のこともあるけど、『マイハズバンド』の写真を見ると、冷蔵庫の掃除をしている島尾の後ろ姿を撮ったり、夕陽とか、友だちの金子隆一さんや平木収さんが訊ねて来たり。傍観者みたいに見つめていて、私自身はけっして穏やかな日々ばかりじゃない。でも島尾も子どもも楽しかったんでしょうね。

潮田登久子『マイハズバンド』(torch press、2022年)より

──おふたりで写真についてお話されることがありますか。あるいは島尾さんの写真について感想を述べるようなことは。

潮田 島尾の写真はボケてるし、ブレてるし、コントラストもあやふやでしょ。それでいて印刷で上がってくるとなんか雰囲気が出るわけですよ。私は一所懸命ピント合わせて三脚立てて撮っているのに、できた写真はこれじゃないと思うことばっかりなんですよね。頭にくるよね。でも言葉のちがいだと思えばね。

回り道でも好きなことを続けること

──最後に、これから桑沢に入学してデザインや写真を勉強してみたい方にたいして、なにかお言葉をいただけますでしょうか。

潮田 好きなことをやるというのが長続きする秘訣かしら。旅行に夢中になったこともあったし、ピアノ発表会、学校案内、雑誌の仕事、会社の会議を撮ったり、いろんな写真を撮りました。こんなのやってらんないと思うこともあるかもしれないけれど、でもお呼びがかからなければ、そういう場所に行く機会もないでしょ。社会との繋がりをつけてくれているわけで、私の視野を広げてくれます。

──島尾さんからも、これから写真を目指したい方へ、お言葉をいただけませんか。

島尾 連れ合いは大事です。

潮田 そりゃあ貧乏覚悟だったら楽しいですよ。だってねえ、どうしようかっていうのはしょっちゅうあったもんね。

島尾 目につくところに銀行の残高を書いた紙を貼るんですよ、280円とかね。

潮田 (なんだか少しうれしそうに)それは昔の話だけど、今もまあ似たようなもんね。

(2024年9月10日 潮田氏自宅にて / 撮影:塩田正幸)

Profile
潮田登久子(うしおだ・とくこ)
1940年東京生まれ。1960年に桑沢デザイン研究所に入学し、写真家の石元泰博、大辻清司の指導を受ける。1963年桑沢デザイン研究所Ⅰ部リビングデザイン研究科写真専攻を卒業。1966年から1978年まで桑沢デザイン研究所および東京造形大学講師を務める。1975年頃からフリーランスの写真家。1976年に初個展「微笑みの手錠」を開催。1978年には長女を出産し、島尾伸三と結婚。作品にさまざまな家庭の冷蔵庫を撮影した『冷蔵庫/ICE BOX』、本を主題とした『みすず書房旧社屋』『先生のアトリエ』『本の景色』の三部作、近著に『ビブリオビブリ』『改修前 前川國男設計 神奈川県立図書館』など。2018年に土門拳賞、日本写真協会作家賞、東川賞国内作家賞、2019年に桑沢特別賞。2021年に刊行した『マイハズバンド』はParis Photo–Aperture PhotoBook Awardsで審査員特別賞を受賞した。
丹下健三
(たんげ・けんぞう 1913〜2005)1970年に大阪で開催した日本万国博覧会の会場マスタープランの設計、西新宿の東京都庁舎など、国家的な建設〜都市事業を数多く手がけた日本を代表する建築家。代表作に、シェル構造をもちいた構造体が頂部において十字をかたどる、東京目白の「東京カテドラル聖マリア大聖堂」や、お台場のランドマークでもある「フジテレビ本社ビル」など。
代々木の吊り天井の体育館
国立代々木競技場(代々木体育館)のこと。意匠設計は丹下健三、構造設計は坪井善勝が担当した。高さ40メートルの2本の支柱にワイヤーを渡し屋根を架ける吊り屋根をはじめ、技術、工法、意匠、機能が高度に融合した戦後モダニズム建築の傑作のひとつ。米軍の宿舎「ワシントンハイツ」跡地(現在の代々木公園、NHK放送センター一帯)が立地なので桑沢からは目と鼻の先。
石元泰博
(いしもと・やすひろ 1921〜2012)写真家。米国に生まれ、3歳で両親の故郷である高知県へ移住後、18歳で再渡米、シカゴのニューバウハウスで写真を学ぶ。1953年に写真家として訪日。55年から桑沢で教鞭をとりながら、シカゴや東京といった都市をとらえたシリーズや「桂離宮」「曼荼羅」「伊勢神宮」など、多数の作品を残した。
長友啓典
(ながとも・けいすけ 1939〜2017)グラフィックデザイナー。桑沢デザイン研究所卒業、日本デザインセンターに入社し、1967年日宣美賞受賞。1969年にイラストレーター、グラフィックデザイナーの黒田征太郎とK2設立。エディトリアル、広告、挿絵、文筆業など幅広く活動した。
小島武
(こじま・たけし 1940〜2009)1940年満州生まれ。戦後、北九州に引き揚げ、高校卒業を期に上京、桑沢に通う。62年からフリーのイラストレーター。高田渡の『系図』や六文銭の「サーカス・ゲーム/私の家」などのレコードジャケットや「話の特集」「ミュージック・マガジン」などの表紙を手がけた。
大辻清司
(おおつじ・きよじ 1922〜2001)東京府南葛飾郡大島町(現・東京都江東区大島)の出身の写真家、教育者。1950年代、瀧口修造のもとに武満徹、秋山邦晴らと集った実験工房に参加する傍ら、写真とグラフィックの融合をはかったグラフィック集団を伊藤幸作、浜田浜雄らと結成。著書に「アサヒカメラ」の連載を編んだ『大辻清司実験室』(リブラ出版、2023年)など。教育者としては桑沢をふりだしに、東京造形大学、筑波大学でも教鞭をとり、多くの後進を育てた。
リアリズム写真集団
1963年、プロアマを問わない写真家、評論家、編集者などで創設した団体の名称。略称JRP(Japan Realist Photographers Association)という。目島計一はその一員で要職をつとめた。
高梨豊
(たかなし・ゆたか 1935〜)東京都出身の写真家。1957年、日本大学芸術学部卒業後、スタジオ勤務を経て桑沢デザイン研究所で大辻清司に学ぶ。1961年の卒業後に日本デザインセンターに入社。1968年には中平卓馬、多木浩二、岡田隆彦らを同人に「思想のための挑発的資料」を謳い、写真同人誌「プロヴォーク」を創刊(のちに森山大道が参加)。
新倉孝雄
(にいくら・たかお 1939〜)東京、湘南やニューヨークや町田などの都市を舞台に、特徴的な構図とコントラストで独自の作風を確立した東京出身の写真家。1963年、桑沢デザイン研究所写真研究科卒。写真集に『湘南と軽井沢』『いい日、ハピネス Those Happy Days』など。
ロバート・フランク
(Robert Frank 1924〜2019)スイス、チューリッヒ生まれの写真家。1947年に米国に移住後、ファッション誌の仕事で生計を立てつつ、南米やヨーロッパへの撮影旅行を重ねる。1955〜56年、グッゲンハイム財団の奨学金を受け実現した米国内の撮影旅行で撮りためた28000枚ものなかから選んだ83作品からなる『Les Americains』を、1958年にフランスで刊行。翌年には米国版『The Americans』を発表し、アメリカの実像を描いた写真集として高い評価をえた。
ポール・ストランド
(Paul Strand 1890〜1976)アルフレッド・スティーグリッツらと親交を結んだアメリカの写真家。『Wall Street』のような抽象性を帯びた風景写真からフランス移住後の人物写真ではよりストレートな作風へ変化した。写真集に『TIR A’MHURAIN: The Outer Hebrides of Scotland』など。
トライX
コダックのモノクロフィルムの種類。Xはフィルムの感度を示し、ISO感度で100がX、200がXX(ダブルX)、トライXはXXXとなり、ISO感度400に相当する高感度フィルムということになる。
ASA感度
アメリカの工業製品における標準化規格(American Standards Association)で採用されたフィルムの感度指標。ISO感度はASAとドイツの工業規格(DIN)を統合し、両者を併記するための国際基準規格(ISO)規格。
パトローネ
写真機にフィルムを装塡するための円形の容器。フィルムカートリッジとも。
東京造形大学
桑沢デザイン研究所の姉妹校。桑沢デザイン研究所創立の12年後に、日本で初めて「造形」という名称を冠して東京都八王子市に開学。初代学長は桑澤洋子。
島尾伸三
(しまお・しんぞう 1948〜)写真家、作家。神戸に生まれ、東京暮らしを経て、奄美大島で幼少期をすごす。東京造形大学造形学部写真専攻科卒。『まほちゃん』をはじめとする身辺に材をとった写真作品と、観察眼と明晰さに富む文章を組み合わせた作風で独自の境地をひらく。著書に『生活』『月の家族』『小岩へ 父敏雄と母ミホを探して』など。潮田登久子は妻。父は小説家の島尾敏雄、母は同じく作家の島尾ミホ、作家のしまおまほは娘。
プロヴォーク
「provoke」高梨豊の註を参照。
コンポラ写真
コンテンポラリー写真とも。1960年代後半に起こった写真の傾向のひとつ。明確な定義はないが、大辻清司が「カメラ毎日」1968年6月号に寄せた「主義の時代は遠ざかって」がしばしば引き合いにだされるように、政治的な主張よりも日常の何気ない事象をとりあげた作品を指すことが多い。
牛腸茂雄
(ごちょう・しげお 1946〜1983)コンポラ写真を代表する写真家。新潟県生まれ。3歳で胸椎カリエスを患い、1年ほど寝たきりの生活をおくる。10代で美術展、ポスター展などに入選。桑沢デザイン研究所で大辻清司に師事し、卒業後はデザインの仕事と並行し撮影活動をつづけ、1977年に自費で出版した『SELF AND OTHERS』で日本写真協会賞新人賞受賞。将来を嘱望されるも、1983年、36歳で心不全のため逝去した。
関口正夫 佐治嘉隆 三浦和人
関口正夫は牛腸との共同名義で写真集『日々』を刊行し、佐治嘉隆は牛腸とデザイン事務所を運営。三浦和人は牛腸の遺した作品の管理とプリント制作に携わっている。潮田は牛腸をふくめた4名の先輩にあたり、在籍するクラスの助手をつとめていた。
しまおまほ
1978年、東京生まれのイラストレーター、作家。多摩美術大学卒業。1997年に『女子高生ゴリコ』でデビュー。著書に『ガールフレンド』『マイ・リトル・世田谷』『スーベニア』『家族って』ほか。
西洋館
世田谷区豪徳寺の「旧尾崎テオドラ邸」のこと。「憲政の神様」尾崎行雄の妻テオドラのために、テオドラの父、尾崎三良が六本木に建てた建物を、1933年、現地に移築した。島尾家は1978年から85年までの7年間、邸宅の2階に暮らした。
ブロニカのS2
吉野善三郎が興した日本のカメラブランド「ゼンザブロニカ」の6×6判一眼レフカメラの名称。S2は1961年に発売されたS(スタンダード)型を改良したモデルとして1965年に発売された。6×6とは写真の画面サイズをさし、6×6センチの正方形のこと。ロクロクと読む。
ハッセル
スウェーデンのカメラメーカー「ハッセルブラッド」のこと。6×6cm判一眼レフカメラの代表的なメーカー。
前川國男館
前川國男設計による神奈川県立図書館旧本館のこと。日本を代表する近代建築のひとつで、現在、2026年度内完成を目途に改修中だが、改修前の姿を潮田登久子の写真集『改修前 前川國男 設計神奈川県立図書館』で目にすることができる。冒頭に述べた丹下健三は前川國男事務所在籍時に、かつて桑沢の並びにあった岸記念体育会館の設計を担当している。
島尾敏雄
(しまお・としお 1917〜1986)横浜市生まれの小説家。九州帝国大学をくりあげ卒業後、第18震洋特攻隊隊長として、奄美群島の加計呂麻島に赴任。出撃命令を受けながら、終戦を迎えた体験や、現地で出会った妻ミホとの結婚生活の危機を描いた小説作品、琉球弧やヤポネシアなどの概念に基づく評論やエッセイなど、現代文学史において大きな足跡をのこした。おもな著書に『死の棘』『出発は遂に訪れず』『夢の中の日常』『日の移ろい』など。
『まほちゃん』
2001年に刊行した島尾伸三の写真集。装丁は奥村靫正。
金子隆一
(かねこ・りゅういち 1948〜2021)写真史家、写真評論家。1970年代末、新大久保で複数の写真家によりたちあげられた自主ギャラリー「プリズム」で島尾伸三と出会い、交流をもつ。1979年、写真家の築地仁、島尾らとともに『camera works tokyo』をたちあげ、85年までに同名の写真誌を12冊刊行した。
平木収
(ひらき・おさむ 1949〜2009)写真評論家、写真史研究家。自主ギャラリー「プリズム」にかかわったのち、評論の道へ。各種学校で写真にかんする講義をもちながら、写真誌を中心に執筆活動を行い、写真文化の普及に尽力した。著書に『写真のこころ』など。