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北山雅和

TOP INTERVIEWS (4) MASAKAZU KITAYAMA

Interview (4)

北山雅和 Masakazu Kitayama

もう一個、化学反応を起こすデザイン デザインにできることはもっと自由で、もっと多面的で、いろいろあるんじゃないかな

「本当に楽しんでいました」——桑沢デザイン研究所在学時を振り返った北山さんの発言にはあふれんばかりの実感がこもっていました。じつはこの言葉の前には「授業以外は」の文言があるのですが、いくぶん照れ隠しのニュアンスを含んでいるであろうことは、授業や課題を通して身につけた「手でつくる」感覚や、仕事に向き合うさいのていねいさが、現在のお仕事にも活かされていることでわかります。1990年代前半に一世を風靡した「渋谷系」の中心地「コンテムポラリー・プロダクション」で時代を象徴する数々のCDジャケットを手がけ、1998年にご自身の「HELP!」の設立を皮切りに、誌面や作品の背後にある「デザインすること」の核心に踏み込んでいく、北山雅和さんにお話をうかがいました。

Contents

インドアもアウトドアも自由自在な子ども時代

──北山さんのご出身は神戸ですよね。

北山 神戸生まれですけど、中学1年のときに父親が転勤で東京に移り、翌年に家族を呼んだので、僕も引っ越しました。中学2年で神戸から東京だったので、言葉が違うし、勉強もまったく違って大変でした。

──そのころすでに絵やアートに興味をもたれていましたか。

北山 絵は子どものころから好きでした。きっかけはおそらく、小さいころに車とかオートバイとかが好きだったからなんですよ。あとはロボットものとか、そういうものが好きで、そうするとそれらを模写したくなるんですね。ほかにもプラモデルや粘土細工も好きでした。一方で、野球なども好きでずっとやっていました。動きもするし、ひとりでこもるのも、両方できるタイプでした。マンガも読んでましたよ。

──どのようなものを?

北山 そんなにディープではないんですが、4年生か5年生のときに、『マカロニほうれん荘』でひっくり返りました。人生の書じゃないけど(笑)、人格形成に影響あったんじゃないかな。全然デザインには関係ない——あ、あるかな、少し。

──あると思いますよ。そのなかで、アートやデザインの方面に行く分かれ道はどこで訪れるんですか?

北山 僕は全然遅かったです。高校を卒業したときに流れで受験した大学を落ちて、学部を調べていくうちに、たまたま近くにあった美大のパンフレットが目に入って、1年浪人して勉強するなら、こっちにしてみようかなという気にはじめてなったくらいですから。それで親に「美大に行くのはありでしょうか」と聞いたら「いいんじゃない」と。その後、代々木ゼミナールの造形学校に通いました。1年間勉強するうちに、デッサンは結構点を取れるようになって、多摩美と武蔵美と東京造形大の3校を受験しましたが、実際はなかなか難しくて、結果が出た後にまだ募集していたセツ・モードセミナーに行こうとしたんですが、予備校の先生が、桑沢の2次がまだ残っているということで、いいかもと思って滑りこみました。

気のあう仲間と、職人的修業時代

──降って湧いたような桑沢での日々がはじまりますが、振り返ってみていかがでしょう。

北山 授業以外はもう本当に楽しんでいました(笑)。親の干渉もないし、時間はたっぷりあって、お金はないけど、成人してお酒も飲めるようになってからは、みんなで集まって飲んだりしていました。安い居酒屋に行けたらそれが一番の贅沢。でも学校のそばにはレコード屋さんや洋服屋さんも多いから立ち寄ったり、ぶらぶらすればなんでもあるじゃないですか。

──当時からいろんなジャンルの音楽を聴かれていたんですか。

北山 ヒップホップについては桑沢に入ってはじめて聴くようになりました。入学は1987年でしたが、当時ヒップホップはそんなに一般的ではなくて、本当に好きなやつが聴いている感じでした。校内では、ネオアコ好きな友だちがいたり、モッズっぽい人が集まったり、パンクのやつが集まったりしていました。でもみんな音楽好きだから、クロスオーバーしていくんですね。

──好きな音楽を仲間うちでオススメし合う?

北山 たとえばヒップホップなら、僕らのときはスチャダラが広めていったんですね。これは聴けると思うよとか。あと彼らはネタを探していたから、どういうレコードがいいんだとか、こういうふうなレコードを探していて、あったら教えてくれとか、情報を交換していました。

──仲間と一緒にライブハウスやクラブにくりだしたことは?

北山 クラブで遊ぶお金もないから学校でパーティをやったんですよ。機材を借りてきて、学校で場所を借りてやろうよ——みたいな感じで申請したらアトリエを貸してくれました。それでターンテーブル、スピーカーを持ち込んで、月イチくらいでパーティしていました。

──「Amalgam」の第2回で取材した奥村靫正さんも桑沢のアトリエでエイプリル・フールのライブを企画したとおっしゃっていましたよ。

北山 エイプリル・フールって桑沢でやったことあるんですか!? すごくないですか!? それ知らないですよ。はじめて聞いた。

──そこで小坂忠さんや細野晴臣さんと知り合ったとおっしゃっていました。その後WORKSHOP MU!!が狭山に移り、細野さんの『HOSONO HOUSE』につながる流れになるそうです。

北山 すごい、それは。歴史が立体的になりますね。

──アトリエでライブやパーティをするというDIY精神はぜひ後代にも伝えていただきたいです(笑)。

北山 当時はスカリバイバルがあって、学内にスカバンドがあったんですよ。そのベースが白根ゆたんぽなんですけどね。その一番人気のバンドの前座みたいなかたちで、スチャダラパーは最初にライブをしたはずです。でもまだすごく下手だったからブーイングが出ていました。もういいでしょ、もうやめなよみたいな(笑)。そんなこといわないでもう1曲といった感じのやりとりがステージと客席でありましたよ(笑)

──メンバーは現在のお三方でしたか?

北山 最初は4人なんですよ。ナイチョロ亀井(亀井雅文)くんがDJだった気がする。いや、ANIか。ターンテーブルはANIくんが買ったので、ANIくんがDJだったと思います。3MCで、SHINCOも最初MCでした。ビースティ・ボーイズみたいな感じで跳びはねながらサイドから出てきました。

──コンセプトはいいと思いますが。

北山 ひどかったです(笑)。客はみんなガチでブーイングしていました。だから市民権を得るまでちょっと時間がかかるんですよ。でも自信というか確信みたいなのがあったんでしょうね。カウンター的なというか、みんなやってないからやるみたいな気持ちはあったんじゃないかなとは思います。

──ツルむという言い方はカジュアルすぎるかもしれませんが、同じ学科のみなさんで集まるんですか?

北山 バラバラでした。僕は1年生のときはリビングデザインでしたが、1年次はグラフィック、インダストリアル、インテリア、全部やるんですよね。外にドレスデザイン科があったので、ドレスの子と、リビングの子と——みたいな感じでした。2年生からはコースによってバラバラになるんですけど、それでもまんべんなく全学科いましたよ。僕はリビングデザインから2年でグラフィックに進みましたが、ANIくんはドレスで、ボーちゃん(BOSE)はインテリアだし、あと白根もグラフィック。そんな感じでまんべんなくみんないろんな感じで、課題を手伝ったりもしました。

──共同作業の課題があったんですか?

北山 いや、間にあわなさそうなやつの手伝い(笑)。提出日の2日前ぐらいからちょっとヤバい、となって、最終日はみんなで集まってもう徹夜です。僕は憶えてないけど、ANIくんが北山くんが手伝ってくれたっていうのを、『余談』という彼らの副読本で書いていました。

──課題の提出はアート系の学校の宿命ですね。

北山 桑沢といえばもう課題の多さじゃないですかね。僕らはめちゃくちゃ遊んでいましたけど、でもやっぱり課題は出さないと1年生から2年生に上がれませんから、及第点をもらうために、先生のダメ出しにもめげずにがんばりました。精度がわるいと〇がもらえない厳しい先生もいましたし、僕がいたときの桑沢はデザイン学校というよりは職人養成みたいなニュアンスが強かったかもしれない。平行四辺形の立方体をつくって、その貼り合わせのエッジが綺麗じゃないとダメという感じでした。木を削ってハンドスカルプチャーをつくったりするんですけど、磨きが甘いとダメ。何回も何回もトライして、オーケーが出るまでやるんです。彫塑とかも佐藤忠良さんに教えていただいたこともあります。「手でつくる」というようなことをおしゃっていました。個人的には、デザインを強く押し出されちゃうと、ちょっと敬遠していたかもしれないとも思いますが、職人的な技術はがんばるとできるし伸びますから。その点を鍛錬してもらった気がします。あと我慢強さ、忍耐強さも試されました。そういう意味ではよかったと思います。

──いままでのお話ではグラフィックデザイナーになりたいという気持ちはあまり感じませんね。

北山 正直にいうと当時はデザイナーになりたいとは全然考えてなくて、まわりにも絵を描きたいとかイラストレーター志望の人が多かったです。当時ザ・チョイス展とかパルコの日本グラフィック展みたいな大きい賞を獲ってデビューする作家さんが、日比野克彦さんをはじめ、たくさんいらした。アートでも大竹伸朗さんがグワッと出てきた時期だから、もうみんなびっくりしちゃって、そういう人たちにあてられていた気がするんですよね。とくにグラフィックの連中はイラストレーターになりたいとか、作家になりたいみたいな人も多かったと思います。

マカロニほうれん荘
秋田書店の週刊漫画雑誌『週刊少年チャンピオン』が1977〜1979年に連載したギャグ漫画。作者は鴨川ツバメ。同時期『週刊チャンピオン』に連載した山上たつひこの「がきデカ」や、音楽やサブカルチャーを援用したスタイリッシュな作風から江口寿史の諸作と比較されることが多い。少年チャンピオンコミックスで全9巻。
モッズ
1950〜60年代、イギリスの労働者階級の若年層に流行した音楽やファッションを含む若者文化。名称はモダンジャズを聴くものが多かったことに由来。三つボタンのスーツにミリタリーパーカーでベスパやランブレッタのスクーターを駆るスタイルはモッズの代名詞ともいえる映画『さらば青春の光』でも確認できる。
スチャダラ
スチャダラパーのこと。結成は1988年。メンバーはBOSE(ボーズ)、ANI(アニ)、SHINCO(シンコ)の不動の三名に、結成当時は現在画家として活動する後述のナイチョロ亀井も在籍。グループ名は宮沢章夫、いとうせいこうらのラジカル・ガジベリビンバ・システムの86年の公演名「スチャダラ」に由来。1990年に『スチャダラ大作戦』でデビュー後、『5th wheel 2 the Coach』(1995年)、『偶然のアルバム』(1996年)などを経て、最新作アルバムは『シン・スチャダラ大作戦』(2020年)。小沢健二との「今夜はブギー・バック」をはじめ、電気グルーヴ、相対性理論など共演者多数。スチャダラパーを中心とするラップグループのクラン(族)「リトル・バード・ネイション(LB)」にはかせきさいだぁ、光嶋崇など桑沢デザイン研究所出身者も多い。
スカリバイバル
1950年代、ジャマイカの地で生まれた音楽ジャンル「スカ」の1980年代後半における世界的なリバイバル(復興)現象。この時期、日本では東京スカパラダイスオーケストラが活動し、のちのスカパンクの呼び水となった。
白根ゆたんぽ
(しらね・ゆたんぽ 1968〜)イラストレーター。桑沢デザイン研究所卒業後、フリーのイラストレーターに。雑誌、書籍、広告、音楽メデイア、ウェブなどにさまざまなイラストを提供。シンプルな描線とポップな色彩感覚、ユニークな人物造型からなる作風が特徴的。
ビースティ・ボーイズ
1978年、ニューヨークで結成したヒップホップグループ。マイクD、アドロック、MCAの三者からなり、自身の出自となるロックなどとのミクスチャースタイルはシーンに大きな影響を与えた。
リビングデザイン
桑沢は創立当初から1997年まで「リビングデザイン科」と「ドレスデザイン科」のふたつを設置していた。1998年からは現行のカリキュラム編成となる。
ハンドスカルプチャー
ドイツのバウハウスで教鞭をとったモホイ・ナジがシカゴのニューバウハウスで考案したという課題で、木の塊を視覚ではなく、触覚をたよりに自分の手に心地よい形に仕上げることを目標とする。バウハウスの流れをくむ桑沢デザイン研究所が設立当初から行う伝統的な課題。
佐藤忠良
(さとう・ちゅうりょう 1912〜2011)宮城県生まれ。東京美術学校(現東京藝術大学)を卒業後、新制作派協会(現新制作)を中心に活動。兵役招集後、シベリアでの抑留生活を経て帰還後に制作を再開。その体験から、日常生活にかいまみる「人間の美」を追求する作品を数多く手がけた。
ザ・チョイス展、パルコの日本グラフィック展
前者は玄光社の雑誌「イラストレーション」で1981年にはじまった誌上コンペ。後者はパルコと雑誌「ビックリハウス」共催による公募展「日本パロディ(JPC)展」を母体とする公募展。
日比野克彦
(ひびの・かつひこ 1958〜)岐阜生まれ。段ボールをもちいた作品で有名な日本の現代美術家。ザ・チョイス展や日本グラフィック展、東京アートディレクターズクラブ最高賞をあいついで受賞し時代の寵児に。1986年のシドニービエンナーレを皮切りに数多くの国際展にも出展し、世界的作家の地位をかためた。現東京藝術大学長。
大竹伸朗
(おおたけ・しんろう 1955〜)東京都生まれ、宇和島在住の現代美術家。武蔵野美術大学在学中の1977年に渡英。帰国後復学し、ノイズユニット「JUKE/19.」の活動を開始。卒業後の1982年に初個展を開催し、80年代初頭にニューペインティングの旗手として話題を集める。コラージュの手法をもちいた絵画、廃材によるオブジェなど、活動領域は多岐にわたり、その集成として2006年に東京都現代美術館で開催した『大竹伸朗 全景 1955-2006』など、大規模展も多数開催。
ネオアコ
1980年代に隆盛をみた音楽ジャンル「ネオ・アコースティック」の略称。英国のチェリー・レッド、ベルギーのクレプスキュールなどのレーベルの作品を中心に、アズテック・カメラ、ペイル・ファウンテンズ、エヴリシング・バット・ザ・ガール(EBTG)などのバンドがシーンの中核を担った。ただしネオアコの呼称自体は和製英語で、海外ではジャングリー・ポップないしはギター・ポップの呼び名が多い。

コンテムポラリーなステージへ〜渋谷系のころ

──北山さんが卒業された1989年はロリポップ・ソニックがフリッパーズ・ギターに改称しデビューした年です。

北山 ロリポップ・ソニックについては、桑沢の後輩に好きな子がいて、存在は知っていました。ただ、「いい」といわれると、かえって警戒するじゃないですか。

──意識して逆に遠ざけてしまう。

北山 そのうちフリッパーズ・ギターが出てきて、どうやらロリポップ・ソニックの人らしいということでファーストを買いに行ったかビデオで見たか、どちらが先かは忘れましたけど、「フレンズ・アゲイン」に、これは大変だと。いろいろ調べて、信藤三雄さんという方がやられているコンテムポラリー・プロダクション(C.T.P.P.)がデザインを担当しているということを突き止めます。少し経って、たまたま学校のそばのレコード店「WAVE」に立ち寄ったら、桑沢の後輩がサクサクしていて、「いまなにしてんの?」という話をしたら、「じつはコンテムポラリー・プロダクションに入りました」というんですよ。ドレス科のめっちゃ遊んでいたやつだったからもうびっくりして。ちょうど中嶋佐和子さんという、フリッパーズを担当されていた方が辞めるあたりで、じゃあもしかしたら、と希望を抱くじゃないですか。それでちょくちょく彼と電話で連絡をとりあっているうちに、たまたま横にいた信藤さんが電話口に出て、遊びに来れば、と誘われたんです。そのときは信藤さんと2時間ぐらいお話ししました。ちょうど、アルバイトから社員に昇格して勤めていた会社を辞めようと思っていたころだったので、信藤さんには「連絡来るまで待っています」とお伝えしました。

──考えようでは重い一言です。

北山 これはいろんなところで話しているんですけど、豆腐屋さんになりたいといっていた時期でもあって、その話を信藤にもしたら「豆腐屋かうちか(笑)」と。そしたら2ヶ月後くらいに電話をいただいて「バイトあるんだけど、今日来られる?」といわれたんですけど「今日は渋谷でスチャのライブがあるのでムリです。明日からじゃ駄目ですか?」と返事をしたら、もうゲラゲラ笑って「明日からでいいよ」と。それが93年の春でした。

──渋谷系のはじまりのころですね。

北山 オリジナル・ラブが「クアトロ〇〇デイズ」みたいなのを仕掛けたのがそのへんだったと思います。フリッパーズが解散してちょっと経ったぐらいですよね。ピチカートも上り調子になっていた記憶があります。『ボサ・ノヴァ2001』の年だ。

──C.T.P.P.はCDジャケットなど、音楽関係のデザインが中心ですよね。

北山 自分としてはコンテムポラリーで、ミュージックグラフィックがどういうふうにつくられているのか、そのシステムを目の当たりにしたという感じでした。レコード会社、ディレクター、アーティストとの絡みとか、撮影どういうふうにするかみたいなノウハウは全部コンテムポラリーで学びました。こんなに専門的にデザインの仕事が成立するんだなと思いましたね。

──信藤さんのお仕事のやり方で参考になったり印象に残ったことはありますか。

北山 信藤さんはひらめくのを待つタイプでした。ずっと洋書を眺めたり、レコード屋に行ってジャケット見て「これいい!」となってポンッと思いついたら、スタッフに振る。よくパクリ議論になりますけど、なにかをモチーフにインスピレーションがきて、ものをつくるという感じでした。映画をはじめ、ボキャブラリーも多かったし、いろんな引用があったと思います。信藤さんはふっと鉛筆で書いたようなものとか、サインペンで書いたようなものをデザインにポンと入れちゃったりするんですね。ポップアートっぽいというか、サンプリングアートっぽいですよね。もっと緻密に組み立てるやり方もあったとは思いますが、それがみていて面白かった。

──ノウハウや方法論をことばで説明されることは?

北山 いや、あんまりなかったです。ただ、当時はまだピンセットを使いながら文字を組んだりしていたんですが、横に立って作業をみていた信藤さんに「もう少し小さくコピーして持ってきて」といわれて、用意して持ってくと、信藤さんが文字を組むところをすぐそばでみられるんですよ。ああ、そっか、そっちのほうがいいよな、みたいな感じで考えながら最初の2年ぐらいはすごしました。信藤さんがまだ自分でデザインしていたころですね。その後はもうアートディレクターになっちゃいましたが。

──担当する案件はどのように決まるんですか。

北山 信藤さんの采配。直感とあと適性みたいなのもあるのだと思います。ユーミンは一番年長者の人がやるとか。ちょっとロックっぽいのは誰々、おしゃれなピチカートみたいなものとか映画っぽいものは誰々、当時は男気系といわれていましたけど、ちょっと元気のある真心のような案件は僕で、コーネリアスも途中から僕になりました。トラットリアもそうですね。きっと信藤さんなりの適性があるんですよ。そこで受けたら、信藤さんがこういう方向でといってデザインを投げて、ラフをつくって、先方に出す前にいちどチェックが入ります。それからまた信藤さんとふたりで詰めて、提出して、直しがあるとその繰り返しです。僕は5年ぐらい勤めたんですが、最後はもうその段取りがちょっとしんどくなって、自信がついたのもあったので、相談のうえ……という感じで退社しました。

──5年というと98年ですね。1998年は音楽ソフトの売り上げがピークを記録した年です。会社の最盛期に北山さんは退かれたということになります。

北山 信藤さんは会社を大きくしたかったと思うんですよ。辞めるのを伝えたときに、快く送り出してはくれたんですけど、僕にはこのデカさはちょっとしんどかったですし、もう無理だなと思っていました。僕は信藤さんがデザインしているのが好きだったから、そういうところに戻ってほしいなと思っていたんです。

フリッパーズ・ギター
前身ロリポップ・ソニックから改称した時点では5人組のバンドだったが、1989年のファーストアルバムを期に、小沢健二と小山田圭吾のふたり組に。1990年の『カメラ・トーク(CAMERA TALK)』、翌年の『DOCTOR HEAD’S WORLD TOWER -ヘッド博士の世界塔-』をもって解散した。文中の「フレンズ・アゲイン」はファーストシングル。つづくシングル「恋とマシンガン」がテレビドラマの主題歌としてヒットした。
コンテムポラリー・プロダクション(C.T.P.P.)
1986年に設立したデザイン事務所。信藤三雄(1948〜2023)がアートディレクターをつとめ、松任谷由実、ピチカート・ファイヴ、ミスター・チルドレン、MISIA、宇多田ヒカルなど、1000枚以上のCDジャケットを手がけた。信藤はグラフィック以外に、ミュージックビデオのディレクションや、映画監督など、多角的に活動した。
WAVE
本媒体にしばしば登場するパルコが展開するレコード店の名称。かつて渋谷ロフトの半地下やクアトロビルなどに入店していた。現在は渋谷パルコ1階にキオスクがある。文中後述の「サクサク」とはレコードを品定めすること。レコードを棚から抜き出すときの擬音から転用。
オリジナル・ラブ
現在は田島貴男のソロユニットとして活動する渋谷系の代表格。代表曲に「接吻」「朝日のあたる道」など。
ピチカート
ピチカート・ファイブのこと。解散時は小西康陽と野宮真貴のデュオ形態だったポップユニット。初期のメンバーは流動的でオリジナル・ラブの田島貴男も一員だった。文中の『ボサ・ノヴァ2001』はフジテレビ系の「ウゴウゴルーガ2号」のオープニング曲「東京は夜の七時」を含み、チャート7位を記録。海外でも作品リリースやライブを行い、解散後の現在もアジア圏を中心に広い影響力をもつ。
ユーミン
松任谷由実(1954〜)の愛称。荒井由実として1973年に『ひこうき雲』でデビューして以降、第一線を走り続け2023年にデビュー50周年を迎えた。
真心
YO-KINGと桜井秀俊からなる真心ブラザーズのこと。代表曲に「どか〜ん」「スピード」「サマーヌード」「拝啓、ジョン・レノン」など。北山は1995年の『King Of Rock』などのデザインを担当。
トラットリア
かつてレコード会社「ポリスター」内で運営していたレコードレーベル。コーネリアスこと小山田圭吾が主宰し、カヒミ・カリィ、サロン・ミュージック、カジヒデキなどポップフィールドから暴力温泉芸者や想い出波止場などオルタナティブな音楽性のグループまで、硬軟に富むラインナップを誇った。1992年から2002年までの運営。
1998年は音楽ソフトの売り上げがピークを記録した年
音楽産業の市場規模は1998年の6075億円をピークに、減少がはじまり、2023年の売り上げは2207億円と三分の一程度におちこんでいる。

あの90年代とこの25年

──北山さんはその後、独立されて、コーネリアスの作品などを手がけていかれます。

北山 コンテムポラリーを退社したのはコーネリアスの『Fantasma(ファンタズマ)』(1997年)のジャケットやツアーパンフレットなどが一段落してからです。じつは独立のきっかけのひとつには1997年に子どもができたのもありました。子どもを持つと感覚が変わるというか経済観念も変わって、もうちょっとパーソナルに自分でこだわってやってみたいなという気持ちがめばえたんです。傾(かぶ)くのではなくて、削ぎ落とすというか、なるべくシンプルに、ということですよね。それまでの反動と、そこへのカウンターみたいなものもあったような気がします。気の合う仲間とかミュージシャンも出てきていたから、細々と言うのもあれですけど、こだわって一個ずつつくるというようなやり方をもういちどやりたい、というのが決断した理由でしょうか。

──コーネリアスにとっての『ファンタズマ』の次作にあたる2001年の『Point(ポイント)』にいまおっしゃった要点が集約している気がします。

北山 小山田くんも子どもができたのがそのちょうどその後ぐらいだったから、そういう気持ちがあったんじゃないかな。

──ご自分の気持ちが届く範囲の作品、仕事にていねいに向き合いたいということですね。

北山 そこは意識していました。30代という年齢のせいかもしれないですけど。

コーネリアス
フリッパーズ・ギターを解散した小山田圭吾(1969〜)が1993年にスタートさせたソロユニット。1997年の3作目『Fantasma』は1990年代を象徴する作品として海外でも評価が高い。2001年の『Point』、2006年の『Sensuous』、17年の『Mellow Waves』、23年の『夢中夢』など、ポップさと実験性を調和した音楽性は独自の境地に達している。

──一方でフリーランサーとしての実感でもうしますと、仕事の量をこなさないといけないという焦りもあろうかと思います。

北山 信じられないかもしれませんが、僕の人生、本当にずっと綱渡りなんですよ。うちの娘には「奇跡だよ」といわれています(笑)。毎日、毎月、毎年が勝負で、気づけば、25年(笑)。なんかラッキーだったんですよね。きっとあの90年代があったから、この25年があったような気がする。

──一方で、先に述べたとおり、98年をピークに音楽ソフト売り上げは減少の一途をたどっています。音楽産業も変質しました。そのなかで今後どのように対応されていくのか、戦略的なものはありますか。

北山 そこまで器用ではないので、戦略は立てられないですけど。たとえば僕はちょっとロゴが得意だったり、デザインのスタイル的にロゴが多かったりしたので、そういうところに活路を見出すということなどは考えます。小山田くんが主宰していたレーベル「トラットリア」がサッカーのコンピレーションを出してくれたおかげで、テレビのサッカー番組のオープニング制作とかサッカー雑誌のアートディレクターとか、サッカー関連の仕事もあるんですよ。音楽がメインなんですけど、ちょっと横にずれた枝葉のようなものに生かされているというか、救われてきたような気はします。

──うかがっているとほんとうに自然体ですね。おそらくそれは北山さんがオープンマインドだからだと思います。

北山 どうなんでしょうね。人には救われているなというか、いいタイミングでいい人に会うみたいなところは、振り返ってみれば、あったような気はします。

──その象徴が小山田圭吾さんだと思いますが、コーネリアスの音楽作品のビジュアルを制作するさいのプロセスを教えてください。

北山 彼が動く時にはモードというかムードが必ずあるんですね。小山田くんからは、こういう方向、こういう感じということもありますし、こういうビジュアルが好きなんだけど、こうしたらどうなる? といって、それをもとに発想を飛躍させて、おたがいにぎゅっとつめていって、これでいいんじゃない、と彼がいったらそれでいけますし、万が一そっちじゃないなと僕がわかったときは「いやこうやったほうがいい」「なるほどね」というような餅つきみたいな感じのやりとりをするとちょうどいい感じにはまるんですね。コーネリアス関係の映像では、辻川(幸一郎)くんや、中村勇吾さんとだと、もっと拡張した、ものすごいものもできるでしょうけど、僕のとこだけはふたりで話し合ってやっている感じなんです(笑)。

──その点では外部のデザイナーというよりはコーネリアスの中の人にちかい気もします。

北山 よく「コーネリアスデザイン部」っていう言い方をするんですよ。その感じは……会社、ユニットというよりも、僕はビジュアルですけど、なんか長く続いているバンドみたいな気もしますね。コーネリアスの「音じゃない部門」。

辻川幸一郎
(つじかわ・こういちろう 1972〜)映像作家。CDや書籍のアートディレクターとしてキャリアをスタートし、友人のミュージシャンからのミュージックビデオの制作の依頼を期に映像制作の道へ。映像作品にコーネリアス「Fit Song」(2006年、文化庁メディア芸術祭・エンターテイメント部門優秀賞)salyu×salyu「話したいあなたと」など。
中村勇吾
(なかむら・ゆうご 1970〜)奈良県出身のウェブデザイナー、インターフェースデザイナー、映像ディレクター。多摩美術大学教授。東京大学大学院工学系研究科修士課程終了後に橋梁設計会社に勤務に就職するも、学生時代に個人サイトではじめていたウェブ制作を本格化させ、デザイナーに転身。NHK『デザインあ』やユニクロの映像やウェブのディレクションなどを手がけた。

届ける先の人たちのためのデザイン

──いま、北山さんにとってグラフィックあるいはデザインを再定義するとしたらどうなりますか。

北山 いまはデザインのためにデザインをするとか、クライアントのためにデザインをしなきゃいけないみたいなところからは少し心が動いていて、なにかを伝えるためにデザインを使う、自分の表現方法のひとつと考えている部分がどんどん大きくなってきています。クライアントワークはやらないと僕らは食べていけないので継続してやっているんですけど、やっぱりそこでもなにか伝えることができないのかなと常に考えている。デザインのためのデザインっていう言い方をしたのは、その問いでもあって、そういうものだらけになっていいのかということを最近、すごく考えるんですよ。デザイナーに憧れてデザイン学校に入ってデザイン事務所なり代理店に入るのはステップとしていいことなんですけど、デザインをしてご飯が食べられれば、終わりなのか、ということをすごく考えます。デザインにできることはもっと自由で、もっと多面的で、いろいろあるんじゃないかなっていうことをすごく考えるし、それと、ご飯を食べていくためにはどうするかということのバランスをみながら続けるということにいまはものすごく力を使っています。 「音楽のデザインをずっとやりたいです」というのはもうなくなったというか、この社会情勢をみているとそれだけじゃ生きていけないと思うんです。必要なことは必要なことでちゃんと表現をしたくて、そのとき僕のなにを使うかといわれれば、やっぱりデザインなんだけど、ゴールはデザインではなくて、デザインを使ってなにをするか、なにを問うか、ということなんです。それって当たり前のことなんでしょうけど、どうもなにか見過ごされてるように感じるんですよ。

──デザインにおけるデジタルのあり方について考えることはありますか?

北山 デジタルについては、技術的に優れてる方がいっぱいいるので、それをみてるのとか使うのは好きですけど、自分がそっち側に行こうっていうことはあんまり考えたことがないですね。やっぱりモノに落としたいっていうのがすごくあるので、ディレクションしてデジタルの仕事はしますけど、それももう本当に数えるほどしかやってない。

──一方で、レイアウト用紙に線を引くデザインからDTPへの移行は身をもって体感されていますよね。

北山 1996〜97年だったかな。マックはおぼえるまでは大変でしたが、アップルは人格があるというか、直感的で入りやすかったですよ。ゲームっぽい楽しみとか、あとハードの感じやソフトの表現の仕方とかもよかったから抵抗もなかった。マシンに乗る感じがしました。

──印刷物の特殊加工も北山さんは結構やられますよね。

北山 それは師匠(信藤三雄氏)の影響もあると思います。

──この分野でも、印刷技術や材料に対する情報のアップデートは必要じゃないでしょうか。

北山 相当気にしていますが、そこだけに陥りたくはないんです。とはいいつつも、やっぱり気にはしています。デザインでちょっとびっくりする部分とか、オチをつけたいというかね。パッケージを開けたときにみんながよろこんだり、びっくりしたりすることを結構考えています。その最たる人がコーネリアスですよ。

──一時期コーネリアスのプロモーション用の非売品のCDでパロディ的なデザインをされていましたね。視聴用のCDは無償で配布するものですから味気ないものが多いなかで、小山田さんと北山さんはあえて商品化できないようなパロディをそこでやってみせる。

北山 まあ趣味の世界ですからね(笑)。もらった人が笑ってくれるといいなと。別に大上段からものをいうつもりはないですけど、ひとつのコミュニケーションじゃないですか。プレゼントをもらうとか、そういうのとちょっと似ているというか。であればやっぱりみたときにクスッとさせたいっていうのはあります。かっこいいといってもらうのもうれしいですけど、軽く笑ってほしかったり、あとは、へえーという驚嘆を、化学反応としてもう一個起こしたいというのはありますよね。感情なのかなんなのかはわかりませんけど、それが届いて、その人が能動的にそれを触ってなにかしたときに、ひとつ上がるというか。そういうことはやりたいなとずっと思っています。

──これから桑沢に進学するかもしれない若い世代に伝えたいことはありますか。

北山 楽しんでもらいたいっていうのはあります。デザインというか視覚表現、視覚伝達にはまだまだ楽しむ要素があると思うんですよ。クライアントワークになってしまうと、杓子定規な感じに陥りがちですけど、視覚伝達ぐらいまで広げて考えちゃえば楽しむ要素があると思う。だから少しでもそういう部分を見つけてほしいと思います。そこに気づくのは本人の資質にもよるのでしょうし、淡々とデザインがしていたい方もいるかもしれませんが、デザインはデザインができてそれで終わりじゃないと思うんです。その後、それを届けた先、届けた相手がどう考えるかというところがいちばん大事だということを忘れないでほしいです。

(2024年3月9日 桑沢デザイン研究所にて / 撮影:塩田正幸)

Profile
北山雅和(きたやま・まさかず)
1967年神戸生まれ。グラフィックデザイナー。Corneliusをはじめ、様々なミュージシャンへのアートワーク制作、NHK連続テレビ小説「カーネーション」タイトルロゴ、21_21 DESIGN SIGHT「AUDIO ARCHITECTURE」展のグラフィックなどを手がける。2007年、作品集『LiGHT STUFf』が第11回 メディア芸術祭 審査委員会推薦作品に選定。2015年より “NO WAR” のプロテストで知られる ‘TYPOGRAFFITI’ と題した立体タイポグラフィ作品を展開。SEALDs、Perfume、METAFIVE、C.R.A.C.、河村康輔、adidas、UNDERCOVER MAD STORE、KEBOZ、岡村靖幸と多様なコラボレーションを重ねながら展示、制作を続けている。