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村野めぐみ

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Interview (3)

村野めぐみ Megumi Murano

着た人がしあわせになる服 桑沢の2年生のとき、自分のつくったものを先生が「すてきじゃないか、
この服は」とほめてくださったことで大きく変わったんです

ベテランから新規まで、多くのファンを惹きつけてやまないブランド「ジェーンマープル」を1985年にたちあげたのが、今回ご登場いただくデザイナーの村野めぐみさんです。ファンタジアを探究しつつも、一義的なスタイルにとどまらない多彩さを有するクリエイションには細部にいたるまで、村野さんのものづくりへのこだわりが詰まっています。原宿の街が教室がわりだった中高生のころ、服作りへ自信がめばえた桑沢時代、渋谷系はなやかなりしころ、ファッション誌をにぎわせたタイアップ企画から、ブランドイメージを確立した現在まで、わくわくすることを忘れない服作りについて、村野めぐみさんにお話をうかがいます。

Contents

パリにまつわるイメージをヴィンテージ調におとしこんだネックレス「Memories of Paris」。リボンコサージュ、ヘアピン、ピアスなどのアクセサリーにもジェーンマープルの世界観が行き届いている

原宿がエモーショナルだったころ

──中学時代から原宿に通われていたそうですね。

村野 実家は大田区で、学校は四ツ谷でしたが、中高と制服がない学校だったんですね。友だちのお姉さんがとてもおしゃれな方で、よく原宿に行っていたのもあって、友だちづてに、いま原宿がすごく面白いと情報が入ってきたんです。好奇心も手伝って、中学くらいから原宿に通いはじめました。登校前に原宿の花屋さんでアルバイトしたり、帰りにも立ち寄ったり、とにかく原宿という街が好きで、そこに居たいと思っていたんです。当時の原宿にはファッションもありましたが、大人の街でもあり、エモーショナルなもので満ち満ちていました。

──大人の街だと、十代の若者は尻込みする気もしますが。

村野 意外とそれは……図々しかったんでしょうね(笑)。物怖じしなかったんだと思います。レオンっていう喫茶店があったんですよね。

──セントラルアパートの象徴みたいなものですよね。

村野 レオンに最初に入ったのは中学2年生くらいのときでした。中高が6年間の一貫教育の学校だったので、上の方に先輩がいらしてそういう空気感にはなれていたのかもしれないですね。先輩とか先輩の知り合いがいるみたいな感じだったので、安心感があったかもしれません。

──中村のんさんの編著書『70s原宿 原風景 エッセイ集〜思い出のあの店、あの場所』(DU BOOKS)にご寄稿されたエッセイにも書かれていましたが、原宿ではお花屋さんで働かれて、その後ゴローズでもアルバイトをされたんですよね。

村野 わけがわからないですよね(笑)。うちのブランドは「かわいい」という言葉がキーワードのひとつですが、もともとはそれだけではなく、きょう横浜に行くなら、ぴちっと全身ハマトラで決めるとか、マリンスタイルにするとか、とにかくいろんなものが好きで自分なりのキーワードを決めて楽しんできました。

──中学時代にレオンに出入りし原宿文化になじまれて、そのときにはもうファッション関係のお仕事に就きたいと考えておられたのですか。

村野 ファッションに本気で進もうと思ったのは高校1年生くらいです。

──なにかきっかけがあったんですか。

村野 私はそれまで、ファッションと音楽、どちらの道に進むか迷っていたんですが、どちらかを選ぶなら、ファッションかなと考えるようになりました。音楽だと真面目に練習しないといけないし、まあファッションがそうではないということではないんですが(笑)、自分がわくわくするほうに行きたいと思い、ファッションに決めました。いつも遊んでいた仲のいい友だちとも、代官山に、そのころの代官山もいまみたいな雰囲気ではなかったので、いつかお店もてたらいいね──なんて話をしながら桑沢に向けて勉強していきました。当時ファッションを学べる学校といえば文化服装学院か桑沢デザイン研究所で、桑沢は学校が原宿に近いというのもありましたが(笑)、デザインからはじまった学校だということもあって、学校での学びを広く活かせるのではないかと思って(進学を)決めました。桑沢は試験がすごく難しいというのを聞いていましたから、受験前には予備校にも通いましたよ。

レオン
1958年に竣工し1998年に解体するまで、原宿のランドマークとなった「セントラルアパート」1階(表参道側)に入居していた喫茶店の名称。同所に事務所を構えるクリエイターやモデル、アーティストなどが多数出入りした。
ゴローズ
高橋吾郎が原宿に開いたインディアンジュエリーの店舗の名称。多くの熱狂的なファンをもつ。
(左)瑞々しいグリーンの葉に飾られた果実が美しい「Very berries」。
(右)さらりとしたコットンリネンデニムで仕立てたサロペットパンツ。(ともにJane Marple)

「すてき」ということばの力

──試験にぶじ合格されて、学校に通いはじめたさい、どのような印象をもたれましたか。

村野 私は1977年の入学で、当時ドレス科は50名の2クラスでした。そこには当時、思い描いていたファッショナブルともまたちがういろんなタイプの方がいらっしゃいました。大学卒業後、あらためてファッションに真摯に取り組む真面目なグループや、サーファーっぽい方、いろんなファッションの方がいて、とても明るくて和気藹々としていてすぐに友だちになれるような感じでした。

──印象に残っている授業はありますか。

村野 平面構成の宮沢タイ先生はすごく厳しくて1回遅刻すると点数が引かれる感じでしたから、徹夜明けであろうが、かならず起きて出席していました。私は出席番号が後ろのほうでしたからぎりぎりでガラっと扉を開けて滑り込む感じでしたが(笑)、授業はすごく面白かった。

──充実した学生生活の様子がうかがえます。

村野 私は1年生のとき、デッサンとかデザインとか、自分より巧い同級生を前に、あまり自信がもてなくて、自分でもグッとくるものがつくれなかったんですが、2年生のとき、自分のつくったものを先生が「すてきじゃないか、この服は」とほめてくださったことで大きく変わったんです。「すてき」といわれたことがすごく心に響いて、そういうところが自分にもあるんだと思うと自信がもてて、いろんなものが自分のなかから生まれてくるようになったような気がします。もしあの先生がいらっしゃらなかったらファッションの仕事にかかわっていなかったかもしれない。

──ご自分の洋服に、人に訴えかけるものがあるかもしれないと思えるようになったということですね。

村野 そうです。それまではとりあえず課題をこなしながら、本当にこれでいいのだろうか、と悶々としていたんですが、そのときはじめて自分もなにか生み出していけるかなと思ったんです。

──いま振り返ってみて、そのときのなにがよかったのだと思いますか。

村野 素材の選び方とか、ちょっとしたディテールの扱い方とか、ストーリーみたいなものがひとつの服に詰まっていたのではないかと、いまは思います。

──その後、研究科に進学されました。

村野 当時の桑沢は3年次に研究科といって、進学希望者には審査があるんですね。研究科では、いろんな企業に行って、それまでは自分のためにつくるだけだった服がいろんな企業の方と打ち合わせて制服をつくってみたり、工業用パターンをつくってみたり、いままでとちがうスペシャルなことをやらせていただきました。研究科は人数もすごく少なかったので、卒展にも向けてチームを組んで、ファッションショーのまとめ役もひきうけたり、舞台の構成をまかせていただいたり、より実践に近い学びでした。

パリを基準にした世界時計と時刻表をフレームに、ヨーロッパのアンティークマップにタイポグラフィを重ねた「Bon voyage」。(Jane Marple Dans Le Salon)

──卒業後は大川ひとみさんのミルクに入社されます。就職先に選ばれた理由について教えてください。

村野 原宿という街がまだ私のなかでも大きな比重を占めていたのと、桑沢に来るファッションの求人の多くが大手か中堅だったんですね。当時はマンションメーカーからちょっと大きくなったようなブランドが新しくて面白い洋服を若者に対して打ち出していましたから、学校の求人だと自分にとってはわくわくするようなブランドが少なかった。そんなこともあって、いろいろ考えたすえに自分で門を叩くしかないと決意しました。
ちょうどそのころ、文化服装学院の友だちからミルクの求人が来ていたという話を耳にしたんです。ミルクは高校生くらいのときから好きだったし、あそこなら自分の感性も活かしてもらえるかもしれないという思いがあって連絡をとったんです。

──ミルクはセントラルアパートにお店があって面接はレオンだったそうですね。

村野 そうなんです(笑)。ひとみさんのお母さまに面接していただいて、ゴローズでアルバイト経験があるというようなことを書いたら「あんさん、ゴローズにいたんかいな」と(笑)。「うちとは真逆やないか」みたいなニュアンスだったはずですが、研究科の授業でつくった服を着ていったら、「ミルクのイメージに合っている」とおっしゃっていただいたので、ちょっとホッとしました。

──じっさいに働いてみてどう思われましたか。

村野 当時ミルクはアトリエで十数人が働いていました。こぢんまりとしたものでしたが、すごくありがたかったのは、ひとみさんのアシスタントというかたちではなく、生地選びからプリントや先染めをつくるところまで、最初から全部まかせていただいたことです。もちろん全部、MD(マーチャンダイザー)やひとみさんのOKをもらう必要がありますよ。でもたとえばコレクションをやるにあたっても、小物から全部、考えてみなよ、といわれて、自分のシーンだけは自由につくらせていただいたんです。自分の世界観をミルクのなかで表現できたのは大きな力になりました。

──とはいえ一着の服を完成させるだけでも新人にはたいへんなことだと思います。

村野 プレッシャーを感じることもありましたが、とにかく服が好きでいろんな服をみてきましたから、たとえば生地屋さんや刺繍屋さんに、それは無理、できないといわれても、こういうものはすでに世のなかにあるんだからできるはずだ、と強く主張したこともあります。当時はいまとちがって、メールはもちろん、FAXもないアナログな時代でしたから色チップひとつつくるのでも、絵の具を単語帳に塗って指示していました。東洋インクの「日本の伝統色」というようなカラーカードはありましたが、それではなかなか厳しくて、自作したんですね。そのときは、白から黒まで、100の階調をつくるという桑沢の授業がすごく役立ちました。授業では白から黒までのあいだを100色ぶんのグラデーションで埋めるんですが、授業を経験したことで、ほんのちょっとのちがい、細かい部分を意識するようになりました。

研究科
桑沢デザイン研究所の昼間部が2年制だった、1988年まで存続した教職課程の名称。卒業生は審査を経て進学する。
大川ひとみ
(1947〜)1970年、原宿で「ミルク」を開業。ガーリーでロマンティックなデザインで一世を風靡する。74年にメンズブランド「ミルクボーイ」をスタート。ストーリー性の高いデザインで独自のブランドスタイルを貫いている。
MD(マーチャンダイザー)
おもにアパレル業界で、消費者のニーズをふまえ、商品の開発から販売戦略までを担う職務の担当者。
イチゴやブルーベリーなどのプリント柄もあざやかなトップスやドレス。2024年の春夏コレクションより

ジェーンマープル誕生!

──1985年に独立されてジェーンマープルが誕生します。若い読者の方に向けて、ブランド名の由来や設立のいきさつなどを教えていただけますか。

村野 ブランド名の「ジェーンマープル」はアガサ・クリスティという推理作家の小説に登場するミス・マープルというおばあちゃんの探偵の名前です。ミス・マープルが最初に手がけた作品が『牧師館の殺人』(1930年)で、その舞台が「セント・メアリ・ミード」という村で、ここから会社名をつけました。もともと海外の推理小説は好きでしたが、セント・メアリ・ミードの情景とか、世界観のなかのおばあちゃんにスポットライトを当てることによって、年齢とか性別とかそういうものを振り切ったところにある精神性みたいなもの、少女性というとおかしいけれど、ある種のイノセントな部分などを出していければいいなと考えました。自分たちの洋服にも小説の物語や場面のように想像力をかきたてるところがあるといいなと思ったんですね。小説のミス・マープルは詮索好きなおばあちゃんですが、すぐれた洞察力をもっているし、そのような人物像を自分なりに昇華していけたらいいのかなと。

──具体的な方向性やどういうような服にするという構想は事前におもちでしたか。

村野 私の根底には、クラシカルでトラディショナルなものがあって、それらを打ち破っていくような場面もあれば、清潔感や品格やインテリジェンスを大切にする側面もあります。服作りは視覚的なものはありますが、精神的なものもすごく大事にしたいという思いがいつもどこかにあって、私にとっては譲れない部分でもあります。服を着た人がしあわせになるものでありたいという気持ちが私のなかにはあって、そのなかからいろいろつくっていけばいいというような、当初は漠然とした考えだったと思います。具体的な部分をひとつあげるとしたら、イギリスの寄宿舎の制服のようなトラディショナルなスタイルが好きでしたから、それらの要素をジェーンマープルなりにかたちにすればよいのかなという気持ちもありました。

──来年(2025年)で40周年ですね。

雑誌タイアップを中心とした撮り下ろし写真。スタイリストの大森伃佑子氏をはじめ、複数のクリエイターによるチーム体制で制作にあたったという

村野 あっというまにそんなになっちゃって。恵まれていたのだと思います。

──1990年代には『CUTiE』や『Olive』など、当時勢いのあった雑誌で個性的な撮り下ろしを展開されていた記憶があります。

村野 うちはコレクションを手がけるブランドではなかったので、ブランドを認知させるために協力していただける媒体と、タイアップみたいな形でブランドのイメージつくりをしていくほうがいいと思い、力を入れていました。『装苑』とは継続的にとりくんでいましたし、『Olive』や『CUTiE』もそうです。撮り下ろしをするのでも、ふつうのファッション誌やカタログ誌みたいじゃなくて、読者が切り抜いてとっておきたくなるような、心に残るビジュアルで、いままでにない誌面をつくりたいと思っていました。

──いまでも当時の読者の印象に残っているというのはその成果だと思います。

村野 もちろん私の力だけじゃなくて、カメラマンさんやスタイリストさん、ヘアメイクのみなさんと「こういう世界観で」と話し合った結果だと思います。チームとしてすごく楽しい機会でした。いまの時代はデジタルでいろんなものができますが、あのころはフィルムで撮っていただいて、アガリもわからないまま進みますから、ドキドキしながらつくる緊張感がものづくりにも活かされていたんじゃないかと思います。

──1994年には「Jane Marple Dans Le Salon(ジェーンマープルドンルサロン)」がはじまります。

村野 ものづくりの経験を重ねて、生地の新しい加工とか、いろんなことに挑戦してみたくなったんです。ジェーンマープルは基本でありベーシックなラインなので、一歩踏みだしたものを表現するにあたって、新たなラインが必要になったんですね。でもつづけているうちにそういうふうにわける必要をあまり感じなくなりました(笑)。顧客の年齢層が上がったのもあります。

──どのようなクリエイションであっても、村野さんのこだわりや世界観が凝縮しているということなのだと思います。

村野 譲れない部分はありますが、自分ではよくわからないんですよね。でもそういうふうにおっしゃっていただけることはあります。禁欲的な服だともいわれます(笑)。
私、少し前まで桑沢で教えていたことがあるんですね。「ブルーノ・ムナーリのファンタジア」というテーマでしたが、なにか目に見えないものであったり、感じるものであったり、知っているものと知っているものを重ねたときになにかちがうものが生まれてくることとかをテーマにしていました。いままでにないドキドキがあるものをつくっていきたいという気持ちはあるんです。そのためにもまず、自分がまずわくわくしないことにはじまらないと思うんですね。

アガサ・クリスティ
(1890〜1976)66冊の探偵小説と14冊の短編集で世界各地に読者をもつ英国の推理作家。「ミス・マープル」シリーズのほかに、探偵エルキュール・ポアロが活躍する『オリエント急行の殺人』『ABC殺人事件』などで名高い。
CUTiE
1989年宝島社が創刊した女性向けファッション雑誌。1990年代初頭、岡崎京子の『東京ガールズブラボー』『リバーズ・エッジ』『うたかたの日々』を連載した。2015年9月号をもって休刊。
Olive
平凡出版(現マガジンハウス)が1981年に『ポパイ』の増刊号として刊行し翌年定期刊行した女性向けファッション雑誌。ガーリーの語が象徴する少女文化を牽引する媒体として、愛読者をさして「オリーブ少女」の呼称も生まれた。2003年8月号で休刊。
装苑
文化出版局が発行する女性向けモード系ファッション誌。ファッション文化への多角的なアプローチに定評がある。現在は隔月間。
ファッションドール「ブライス」の写真集『Blythe Rhapsody(ブライスラプソディ)』(グラフィック社、2007)でジェーンマープルが表紙を担当。本格的なサージェントジャケット、羽を一枚一枚重ねたスカート、ヘアメイクまで、こだわりのある世界観を作り込んだ

次のわくわくを探して

──ものづくりのアイデア、刺激や情報はどのようにみつけるんですか。

村野 本を読んだり、写真集を手にとったりすることもありますが、街やテレビや映画で見たもの、美術館に足を運んだとき発見したこととか、いままでの何気ない瞬間を抽斗に閉まってきたものを少しずつ紐解いて、これとこれを組み合わせるとか、経験値はすごく大きいです。

──ものづくりに携わる方にお話をうかがうと、経験の反面、自己模倣に陥ることの危険性を指摘される方もおられます。その点への克服方法はありますか。

村野 いままさに次の秋冬でレミニッセンス(記憶改善現象)をどういうふうに上書きしていくかということをテーマしているので、そこに四苦八苦しながら挑んでいるところといえるかもしれません。私にとっての服作りはまず自分がわくわくすることなんです。これもう見たじゃんとか、これ着たじゃん、つくったじゃんというところから、それらをどのようにして2024年のムードに落とし込むかが課題なんです。たとえばプリントひとつとっても、毎シーズン外せないイチゴや王冠のモチーフも、色やカタチ、構成、素材、可能なかぎりあらゆる角度から検証しながら生まれる直感のようなものも大切にしたいです。慣れてくると、ついつい流されてしまいますが、そんなときでも、必要に応じて立ち止まって「ダメじゃんこれ」と判断することが大事だと思います。まずは人に伝えなければならない仕事ですから。

──生み出すのに苦労されるほうですか。

村野 すんなりとはいきませんね。ほんとうに才能がなくて、羽根なんかもうボロボロです(笑)。まれにすっと出るものもありますが、たいがいは苦労します。自分に納得できないタイプですから、一点(デザイン画を)描いても、いやちょっと待てよ、と。夜中に描いて家に帰って寝ても、朝が来たらやっぱりちょっとちがうといって捨ててまた一からということも少なくないです。100%できたことなんか一度もないし、悩んで後悔のくりかえしです。

──経験を重ねたとしても、服作りにかんしては毎回ゼロからはじまるということでしょうか。

村野 そうです。とくにうちは、長年手にとっていただいている顧客の方もいらっしゃいますから、定番であっても、かならずアレンジを加えます。お客さまのワードローブに並んでいる服に対して、新しい提案をさしあげることも、デザイナーとして大切なことですね。

──現在のファッション業界、あるいはファッションのあり方に対して、なにかお考えのところはありますか。

村野 以前、桑沢で教えていたときにも感じたことですが、このところファッションは楽しむものであって仕事にするものじゃないという風潮があると思うんですね。一人一人が町の洋裁店で仕立てていた時代からプレタポルテ(既製服)が生まれて、70年代には原宿のマンションメーカーができて、少しずつファッション業界が大きくなり、大手が手がけるようになってから屋台は大きくなりましたが、ビジネスとして服作りを考える傾向が強くなった気がします。そのことももちろん大事なんだけど、文学や音楽と同じように、形や見た目だけではなく、着る人の心を輝かせるようなファッションがだんだん少なくなってきているのかもしれません。

──いま村野さんがもっとも気にしていること、これからこうしたいと考えていることを教えてください。

村野 来年40周年なので、次にどうやってわくわくしたものを届けることが私はできるのか、いまはもっぱらそれしかないです(笑)。この先も自分がファッションに携わっていけるのであれば、ファッションがいかに人生の大切な部分なのかということを伝えていきたい。同じフリルであっても、着たときに風を感じたり、心に響いたりするのはどういうものか──、そういうものを追究していきたいと思っています。

──村野さんにとってのデザイン、ファッションを定義されるとしたらどういうものになりますか。

村野 デザインは、人とかかわるものであり人をしあわせにするものでなければいけないと私は思います。それが一番根底にあるものかもしれません。ファッションも、その人がしあわせを感じられる一部分であること、それが一番大事だと思います。

──桑沢に進学を希望される高校生たちに対してなにか言葉をかけるとしたら、どういうものになりますでしょうか。先輩としてデザインの先達として、言葉をいただけるとありがたいです。

村野 デザインにもいろいろありますよね。グラフィックやファッション、インテリア以外にプロダクトもあれば、パッケージもある。たとえ分野がちがっても、デザインは手にとった人の人生のすごく大事な部分に自分がつくったものや発信したものがかかわっていけるという大切な仕事だと思うんです。

(2024年3月24日 セント・メアリ・ミード アトリエにて / 撮影:濱田晋)

Profile
村野めぐみ(むらの・めぐみ)
1979年桑沢デザイン研究所ドレスデザイン科卒業後、ミルクにデザイナーとして勤務したのち、1985年にセント・メアリ・ミードを共同で設立。デザイナーとして、一貫したブランドイメージと妥協を許さない商品開発のもと、1990年代には『装苑』や『CUTiE』、『Olive』などでタイアップ記事を掲載。設立10年目前となる1994年にはジェーンマープルドンルサロンをたちあげ、素材や発想の面で新境地をひらいた。2008年に桑沢賞受賞。