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奥村靫正

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Interview (2)

奥村靫正 Yukimasa Okumura

先駆者のしなやかさ 僕の場合は区切りが曖昧で、そのぶん自由にやれたのかもしれません

今回ご登場いただくのはアートディレクター、グラフィックデザイナーの奥村靫正さん。本媒体の他のデザイナーの方へのインタビューでもしばしばお名前があがるとおり、奥村さんの手がけた作品は時代の画期となるものが少なくありません。桑沢デザイン研究所の同窓生、眞鍋立彦さん、中山泰さんと結成したWORKSHOP MU!!でのオリジナリティあふれる作品の数々、デザインや文化を超え現象となったYMOとの試みはもちろん、広告やブックデザイン、DTPツールを効果的にもちいたビジュアルから十代のころから親しんだ日本画の再興、その多角的な経験と視点を通した提言など、この人こそデザインという境地に達した奥村さんのデザイン観に耳を傾けます。

Contents

反発が入口だったデザインへの道

──奥村さんが美術や絵画に興味をもたれたきっかけについて教えてください。

奥村 興味をもつというよりは父親が日本画を描いているのを見て育ちましたので、自然にそうなったんですね。日本画の先生についたこともありますよ。基本は模写と写生でした。日本画は、ものを見て、それを描く「写生」と、絵をなぞりながら先人のテクニックをおぼえる「模写」の繰り返しです。それを高校生ぐらいまで10年ほどつづけました。

──日本画からデザインへ、進路を変えられたのにはなにか理由があったんですか。

奥村 まあ反発です(笑)。親への反発からなにをどうしようというところからデザインに行き着いたんですね。

──時代背景としては1960年代、高度経済成長期にあたりますね。

奥村 そのころになると、ポップアートや世界のグラフィックなどの情報が入ってくるようになるんです。ことに東京オリンピック(1964年)以降が盛んでした。展覧会に足を運ぶなど、そういった経験も大きかったです。

──桑沢への入学は1966年(昭和41年)です。

奥村 父や家族は日本画の世界でやってほしいということでしたから、反抗心もあっていろいろ画策した結果、桑沢へ進学することになったんですね。日本画の世界でやるとしたら、京都芸大や東京芸大の日本画科への進学を考えるということで、いちおう受験対策はしていました。結局受けずにデザインを学ぶことになりましたが、「この道でなければならない」というような強い決意があったというよりは、日本画の世界からどこまで離れられるかというようなことを考えていたというのが本音です。桑沢に進学した理由としては、写真弘社という会社の前の社長さんの柳澤卓治さんという桑沢出身の方と中学生ぐらいから家族ぐるみで懇意にしていただいたことが大きいです。

──美術関係の方が出入りされるご家庭だったんですね。

奥村 母方の親戚に尾崎三吉さんという写真家、歴史的にいえば、秋山庄太郎さんの前の世代のスターがいたんですね。戦時中から戦後の日本のメディアで活躍して、日本デザインセンターの写真部をたちあげた方で、そのような縁もあったかもしれません。僕の祖母が東京の奥沢在住なんですが、上京のさいに尾崎三吉さんの高樹町のスタジオに顔を出したりするなかで、写真やデザインに興味がめばえたところも少しありました。

──進学前にデザインにたいする知識はありましたか。

奥村 国内外のデザインについては自分なりに勉強はしました。なかでも大正末期から昭和10年ごろに平凡社が出していた『世界美術全集』という30巻ほどの全集が自宅にあって、それが非常に面白い全集で、古代から現代までの海外の美術の動向と日本の美術が時系列に沿って並んでいるような編集でよく眺めていました。そこには当然、バウハウスなど、デザインの項目もあって、そういう情報は読み解いていました。受験では理工科系、千葉大の工学部には写真の学科もありましたから、そこもめざしていましたが、僕らのときは軒並み倍率が高くて、数十倍の倍率がザラだったんですね。芸大だと50倍か45倍もあったと思う(笑)。

──くじ引きみたいですね(笑)。

奥村 国立の理工系志望ということで研数学館という予備校に通っていましたが、まわりがものすごく優秀なんですよ。そこでこれはちょっと厳しいかもしれないと。柳澤さんの助言にも、先生がすごくいいよ、というがありましたので、桑沢に志望をかえました。当時桑沢には、日本画の朝倉摂さん、彫刻の佐藤忠良さん、写真の大辻清司さん、それから僕が高校時代いちばん好きだったデザイナーの草刈順さんらが教鞭を執られていて、それも大きかったです。入ったときちょうど草刈さんは高島屋の宣伝部から西武の堤清二さんの要望でセゾングループのICを手がけられたころです。僕が好きだったのは高島屋時代の彼の作品でしたが、時代のトップクリエイターが学内にいらっしゃって、いま考えると、ほかの大学ではちょっとなかったと思います。

──先生方との交流はありましたか。

奥村 小さな学校ですからね。毎日なんらかの交流はありましたよ。僕がいた当時は1学科30〜40人くらいで、2年終えて、3年次は研究科になるんですが、そこでは12人くらいでしたから。

写真弘社
プロ写真家のためのプリント制作や、各種撮影、複写、デジタル画像処理などを行う映像関連会社。1950年創業。
日本デザインセンター
デザイナーの亀倉雄策、原弘、田中一光らが中心となり、1959年に設立した広告制作プロダクション。木村恒久、横尾忠則、長友啓典、原研哉、サイトウマコトなど、多くのデザイナーが巣立った。
尾崎三吉
(おざき・さんきち 1912〜1994)愛知県生まれの写真家。東京写真専門学校(現・東京工芸大学)を卒業後、1940年まで戦前の小西六(現・コニカミノルタ)でフィルターと薬品の主任をつとめる。感光材料の研究などを進めるなかで、撮影対象としての女性の肌に着目し、女性写真の第一人者となる。1956年に後述の秋山庄太郎らと女性写真専門の集団ギネ・グルッペを設立。
バウハウス
1919年、ヴァイマル共和政期のドイツはヴァイマルに創設した工芸・写真・デザインなどを含む美術と建築に関する総合的な教育を行った学校。桑沢デザイン研究所の源流。
朝倉摂
(あさくら・せつ 1912〜2014)舞台美術家、画家。1970年に渡米し舞台美術の本格的にかかわりはじめ、実験的な演劇から伝統的な舞台やオペラまで、多くの作品を手がけた。
佐藤忠良
(さとう・ちゅうりょう 1912〜2011)彫刻家。ブロンズや木彫で生命力あふれる作品をのこした、戦後具象彫刻の第一人者。絵本『おおきなかぶ』など、挿絵画家としても著名。
大辻清司
(おおつじ・きよじ 1922〜2001)写真家。1950年代、瀧口修造のもとに武満徹、秋山邦晴らと集った実験工房に参加し、写真とグラフィックの融合をはかったグラフィック集団を伊藤幸作、浜田浜雄らと結成。著書に「アサヒカメラ」の連載を編んだ『大辻清司実験室』(リブラ出版、2023年)がある。
草刈順
(くさかり・じゅん 1928〜2001)グラフィックデザイナー。高島屋宣伝部をへて独立。阪神百貨店、西武百貨店、緑屋などのロゴを手がける。桑沢デザイン研究所の旧ロゴも草刈の作。
堤清二
(つつみ・せいじ 1927〜2013)西武グループの流通部門の母体とするセゾングループを率い、セゾン文化と呼ばれるいち時代を築いた実業家。辻井喬の筆名で多くの小説、詩集、対談集などをのこした。

WORKSHOP MU!!誕生!

──奥村さんはやはり桑沢で学ばれていた眞鍋立彦さん、中山泰さんとWORKSHOP MU!!を結成されます。メンバーのみなさんとは在学中に知り合われたのですか。

奥村 研究科では3人一緒でした。初対面の印象はおぼろげですが、たがいのものの見方を知って意気投合していました。最終的に研究科で一緒になりましたが、卒業して真鍋くんと中山くんがWORKSHOP MU!!を立ち上げました。

──卒業年が1969年ですから、卒業されて1年ほどのブランクがありますね。

奥村 1年ほど、みんなそれぞれデザインの勉強をしようということですよね。リーダーの眞鍋くんなんかは桑沢の助手を1年半くらいやって、中山は代理店でアルバイトをしていました。僕はもうまったくのフリーランスをしていて、1年ほどでWORKSHOP MU!!に参加しました。

──在学中に骨董の売り買いをされていたとうかがいました。

奥村 実家の両親や祖父がコレクターで、僕自身好きだったのもあって、骨董に関してはある程度の素地があったんです。骨董通りのお店で買い付けをはじめたときはまだ十代でした。市場に行ってオークションに参加して買い付けるんです。オークションではまず偽物は上がってきませんし、いいものにははじめからから値段がついてきますからそういうものを見て勉強するんです。

──MU!!としての活動はどのようにはじまったんですか。

奥村 会社を設立して青山の表参道と246(号線)の交差点あたりのワンフロアを借りてはじめました。そのときはスポンサーがついていて、いろんな会社の商品企画の仕事をやっていました。家具とかファッションとかテキスタイルとか、いろいろでしたが、グラフィックではありません。その場所で2年ほどつづけたのち、1971年に埼玉県の狭山に移動します。ちょうど万博の時代で、1970年代の大阪万博を期に若者に投資する社会的な機運が高まって、当初仕事は順調でしたが、2年ほどしたらオイルショックがあってダメに。移転したのはそういう理由もありました。

細野晴臣『HOSONO HOUSE』(1973 / King Record)

フリーな学校、自由な発想

──狭山の米軍ハウス(狭山アメリカ村)を選ばれたのはどのような理由からですか。

奥村 狭山市がハウスを貸し出すという新聞記事をたまたま目にしたんですね。見に行ったら環境もよくて、すぐに決めました。それまでは都会のど真ん中でしたが、音楽的にも、ザ・バンドのようなカントリー志向のバンドが出てきたり、ウッドストック(のフェスティバル)があったりしましたから、すごく新鮮でした。

──はっぴいえんどを解散した細野晴臣さんは狭山でファーストソロアルバム『HOSONO HOUSE』(1973年)を録音していますが、奥村さんは現場を目撃されたことはありますか。

奥村 細野くんとはほとんど同時に引っ越してお隣どうしでしたから。自宅録音の試みはおそらく日本でもはじめてですよね。庭には大きな電源車が入っていました。リビングをスタジオにして、メンバーはキーボードに松任谷正隆、ドラムの林立夫、ギターの鈴木茂といった当時親しかったミュージシャン、そして奥さん、幼い子どもまでいました。だから毎日のように行っていましたね(笑)。

──その点でも奥村さんは歴史の証人といえるかもしれません。細野晴臣さんとの交流はそもそもどのようにしてはじまったんですか。

奥村 それも桑沢です。僕らの在学していたころは学生運動が盛んでしたから、学校を通さなくても校内でコンサートができたんです。まったくフリーだったんです。

──フリーと決めているのは生徒のみなさんという気がしますが(笑)。

奥村 そうですね(笑)。校舎でよくコンサートを開いていましたよ。当時は3階に教室があって、三つくらいのスペースに間仕切られているんですが、仕切りを除けると大きな室内になるんです。そこで券を売ってパーティをしていました。みんながそういうことをやっていたと思います。何回かつづけていると、やっぱり巧いバンドのほうがお客が来るし、券も売れてなりたつということに気づくんです。誰が最初に細野くんたちを呼んだのかはわかりませんが、自然にエイプリルフールが出演者に入っていました。小坂忠、細野晴臣、松本隆と、柳田ヒロというメンバーですね。そのようなことがあって、だんだんみんなと親しくなって、小坂忠がWORKSHOP MU!!に参加するようになったんですよね。彼は日大の芸術で、実家が彫金をしていたこともあって、絵心がありましたから。

──小坂忠さんのファーストアルバム『ありがとう』(1971年)のカバーアートを、WORKSHOP MU!!のみなさんで描かれたとうかがったことがあります。MU!!はほかにも、大瀧詠一さんや、加藤和彦さんらのサディスティック・ミカ・バンドなど日本の音楽史に残るレコードジャケットを数多く手がけています。どのような理由でそのような流れができたのでしょう。

奥村 細野くんや麻田(浩)さんなんかだと、彼らが来て「こんどLP出すから」と直接いわれるんです。狭山アメリカ村にはミュージシャンが何人か越してきて、空いたら知り合いに報せて、また誰かが入ってということの繰り返しでしたからみんなご近所さんなんですね。当時の日本のロックバンド、ある種の東京的なロックバンドのほとんどのジャケットをやっていたと思います。

──MU!!独特の1950〜60年代のアメリカを想起させるモチーフはどのようしてできあがったのでしょう。

奥村 東京郊外に環状に位置するアメリカ軍の基地、横須賀、横浜の本牧や厚木、それから横田、立川と狭山のジョンソン基地、その周辺のジャンクをあつかう店、クズ屋さんには1950〜60年代の本や印刷物が大量にストックされていました。そういうところから仕入れたものがMU!!のデザインの材料でした。当時、海外の古雑誌を売っているようなところは東京にはなかった時代です。仕事場で山のようになっている古雑誌や印刷物を元にコラージュしたりするんです。

──奥村さんは75〜76年にWORKSHOP MU!!から独立されました。

奥村 5〜6年活動して解散、自然解散というのかな。それぞれみんな自分の道に進んでいきたいということになったんですね。グラフィックデザインをやっていきたいという気持ちは変わらなかったです。それからは、ムーンライダーズの『火の玉ボーイ』をはじめとして音楽関係のレコードジャケットを手がけながら、CFの制作、資生堂とかセゾングループなどのクラアイントの仕事、いろんなことやりました。音楽の仕事だけで当時の会社はなりたちませんでした。

──安価だったということですか。

奥村 ひどい状態でした(笑)。ほとんどのレコード会社はロックは売れるものではないということで、まったくお金をかけず、内製の予算でやっていくという感じでしたから。

──広告と音楽関係など、内容によって仕事の考え方や進め方にちがいはありましたか。

奥村 僕の場合、もっとも考えるのは、相手の要求をいかに汲むかということなんです。ミュージシャンが相手なら音楽との同調性、企業であれば企業のブランディングに対して答えを返していく、その点ではやり方は同じといえます。

狭山の米軍ハウス
代々木のワシントンハイツと同じく、旧ジョンソン基地(現在の狭山市稲荷山公園)そばに隊員や家族のために建てられた住宅および住宅地の通称。
ザ・バンド
ロビー・ロバートソン、リヴォン・ヘルム、リック・ダンコ、リチャード・マニュエル、ガース・ハドソンによるロックバンド。ボブ・ディランと協働するなかで『ミュージック・フロム・ビッグ・ピンク』(1968年)など、時代を画す重要作をものした。
ウッドストック
1969年8月15日から17日までの3日間、ニューヨーク州サリバン郡で開催した大規模野外コンサート。全米各地から40万人もの観客を集めた祭典は現在の野外フェスの原点ともいえる。
『HOSONO HOUSE』
細野晴臣のファーストソロアルバム。1973年2月15日から3月16日、松任谷正隆、林立夫、鈴木茂ら、細野をふくめたキャラメル・ママのメンバーで録音。エンジニアは吉野金次。
エイプリルフール
グループサウンズのザ・フローラルを前身とするブルースロックバンド。アルバムに1969年の『APRYL FOOL』。1970年公開の吉田喜重監督作品『エロス+虐殺』のサウンドトラックにも参加。
大瀧詠一
(おおたき・えいいち 1948〜2013)シンガーソングライター、作曲家、音楽プロデューサー。エイプリルフールを解散した細野、松本隆らが新たに結成したはっぴいえんどに参加。在籍中に発表したファーストソロアルバム『大瀧詠一』のカバーはWORKSHOP MU!!が担当した。アルバムに『A LONG VACATION』『EACH TIME』など。
加藤和彦
(かとう・かずひこ 1947〜2009)1965年に北山修らとザ・フォーク・クルセダーズを結成。解散記念として67年に制作したLPから「帰って来たヨッパライ」がラジオでヒットしメジャーデビュー。フォークル解散後はサディスティック・ミカ・バンドで「タイムマシンにおねがい」などをリリースするともに、独自の作風によるソロ作でも名高い。愛称は「トノバン」。
麻田浩
(あさだ・ひろし 1947〜)横浜市生まれ。1976年に「トムス・キャビン」を設立し、トム・ウェイツ、エルヴィス・コステロなどを招聘。奥和宏との共著に『聴かずに死ねるか! 小さな呼び屋トムス・キャビンの全仕事』(リットー・ミュージック、2019)
ムーンライダーズ
はちみつぱいを前身に鈴木慶一、武川雅寛、かしぶち哲郎、岡田徹、白井良明、鈴木博文らで結成したロックバンド。『火の玉ボーイ』は彼らの1976年のファーストアルバム(名義は鈴木慶一とムーンライダース)。

YMOという時代

──1980年代には一連のYMO関係のお仕事がはじまります。

奥村 MU!!が自然解消してから、僕は狭山を離れ、原宿のセントラルアパートに「The Studio Tokyo, Japan.」を構えました。それまでに10年ちかいキャリアがあったんですが、おそらくそういうことをやる人があまりいなかったんでしょうね。当時、ほとんどのデザイナーは代理店にいるような時代でしたから。

──YMOにかかわるきっかけは細野さんですか。

奥村 そうです。それも直接ですね。それ以前も、ティン・パン・アレーとか、彼のまわりの仕事はつづけていました。YMOとの仕事は1981年、アルバムでいえば『BGM』や『テクノデリック』以降が中心になります。それまでもチームにはいたんですが、羽良田平吉さんとか横尾忠則さんとかが制作していましたね。

──YMOは『BGM』の前にも、『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』や『増殖』など、ビジュアル的にもインパクトの強い作品を出しています。それをふまえて奥村さんはどのようなものにしようと考えていましたか。

奥村 これは細野さんをはじめ、3人全員の意向で、いままでやっていたエンターテイメント性、自分たちが(ジャケットに)映っていて、ある種のアイドル化に拒否反応をしめしはじめたんですね。彼らは自分たちは写真を撮らない、という。一方、所属レーベルのアルファレコードは出てくれ、と口説く。そういう段階からはじまりました(笑)。

──その場合、みなさんに意見を聞くんですか? 奥村 いちおう彼らが集まったときにスタジオに行くんです。曲自体のコンセプトというか、細部をみるためには実際に会うのがいいんですね。

──『BGM』の時期はバンド内の仲があまりよくなかったと聞きますが、じっさいはどうだったのでしょう。

奥村 (苦笑)WORKSHOP MU!!の最後のほうもそうですが、自分たちがやりたいものが出てくるわけだから、やっぱり共同作業というのもなかなか難しくなってきますね。たしかに『BGM』のときは雰囲気がわるかったとよくいわれますが、僕の印象では、少なくとも音楽をつくっているときはそういう雰囲気はなかったですよ。

YMO『BGM』(1981 / Alfa Records, Inc.)ジャケット(『WORKSHOP MU!! Designing from 1970 and forever』より)

──そのなかでこの印象的な『BGM』のジャケットができあがります。

奥村 決まるまでの過程では、トーストにバターぬっている絵柄の案もあって、いくつか出したなかで、この画像におちつきました。

──『BGM』のジャケットのもうひとつの特徴は透かし彫りのような温泉マークです。いまやYMOの代名詞のようになっていますが、この絵柄に温泉マークを組みあわせるのも意表を突くセンスだったと思います。

奥村 普通はありえないですよね。IC的にマークをつくるということは、YMOのような音楽アルバムでは前例がないので、あえてやってみたということです。三本の湯気がYMOを表すとか、つかれたので温泉に行きたかったからとか、いろいろな意見はありますが、僕としては自然に出てきたとしかいいようがありません。そのようにして生まれてきたアイデアを、クライアント、YMOの場合はメンバーと何度も話し合いながら、彼らの欲求に対して返していくなかでかたまっていくという感じですかね。

原宿セントラルアパート
かつて表参道と明治通りの交差点に立地していた住宅および商業施設。1958年に米軍関係者などを対象にした共同住宅として完成し、1960年代には多数のクリエイターが事務所を構える文化拠点の様相を呈した。1998年に解体し、跡地では現在、東急プラザ表参道原宿が営業している。
ティン・パン・アレー
キャラメル・ママが1974年に改称した新たなバンド名。
羽良田平吉
(はらた・へいきち 1947〜)グラフィックデザイナー。『HEAVEN』『ガロ』『QuickJapan』などの書容設計、タイポグラフィ、色彩感覚で独自の境地をひらいた。YMOでは『ソリッド・ステイト・サヴァイヴァー』『パブリック・プレッシャー』のジャケットデザインを担当。
横尾忠則
(よこお・ただのり 1936〜)2024年に逝去した唐十郎の状況劇場をはじめとするアングラ演劇のポスターや『週刊少年マガジン』の表紙をはじめとしたらグラフィックデザインの分野で活躍したのち、1981年に画家に転向。作品に「神話の森」や「Y字路」シリーズ、「寒山百得」シリーズなど多数。

余白からのデザイン

──レコードジャケット以外にも、坂本龍一さんが『音楽図鑑』(1984年)を出された翌年に本本堂(朝日出版)より刊行した『音楽図鑑 エピキュリアン・スクールのための』と題したグラフィカルな書籍の装丁も担当されています。この本のようなお仕事でも坂本さんと相談して決めていかれたんですか。

奥村 あれはね、編集作業がベースにはなっているんですね。グラフィックが先行するというよりも、台割りをつくってどのように構成するかという、ひとつひとつの流れをつくっていくんです。坂本くんがテーマを考え、それに対して図像を選んでいくという、完全に編集的な手法です。対話を通してなにが必要なのか考えながら構成していく——、僕の基本はむしろエディトリアルなんですね。

──しかし一方で、奥村さんのデザインは既存のブックデザインやジャケットデザインに収まるようなものでもなかったのではないでしょうか。同時期の中沢新一さんや細野さんのご著書での装丁もそうですが。

奥村 たぶんそれぞれのジャンルで専任でやっていた人がいなかったからだと思います。たとえば葛西薫さんは広告、戸田ツトムさんならエディトリアル——、そのような状況で僕はちょうど中間的な立ち位置だったのかもしれないですね。それぞれの分野で、その後もみなさんは進化していくんですが、僕の場合は区切りが曖昧で、そのぶん自由にやれたのかもしれません。

──YMOのあとには秋山道男さんとチェッカーズを手がけられています。チェッカーズはYMOと音楽性はまったく異なりますが、対象への向き合い方に変化はありましたか。

奥村 チェッカーズは秋山くんがもちこんできた企画ですね。音楽は歌謡曲的でポップなんですが、YMOのプロジェクトをそのまま流用しています。僕が提案したのはスタイリングです。彼らはヤマハが主催するアマチュアコンテストの九州地区チャンピオンなんですが、学生バンドのようなものでしたから、東京でデビューするにあたって、合宿してギターやベースやドラムスをおさらいすることになった。そのときの彼らはジーンズに革ジャンにリーゼントというほとんどキャロルと同じスタイルで、バンドとしてはこれでいきたいというんです。WORKSHOP MU!!はキャロルも手がけていましたが、僕と秋山くんはあまり興味がもてず、断って帰ってきたんです。ところが2週間ほどしたら郁弥(現・フミヤ)が来て、言う通りにするから——ということではじまりました。

──どういう発想でチェッカーズのスタイリングはできたんですか。

奥村 とにかくチェッカーズという名前は変えたくないと、であれば名前に合わせようということで、僕がテキスタイルの柄を描いて、いくつかパターンをつくりました。デザインはコムデギャルソンにいった堀越絹衣さんですね。

──アートディレクターの域を超えていますよね。

奥村 ビジュアルとかスタイリストのような仕事もずいぶんしてきましたからね。資生堂の仕事もそうでしたし、まだスタイリストとかそういうジャンルであまり人材がなかったんですよ。スタイリストという名称もなかったような時代でしたから。

サディスティック・ミカ・バンド『サディスティック・ミカ・バンド』(1973 / Doughnut)インナースリーブ(『WORKSHOP MU!! Designing from 1970 and forever』より)

──WORKSHOP MU!!が手がけたサディスティック・ミカ・バンドのファーストアルバム『サディスティック・ミカ・バンド』(1973年)のダブルジャケットの写真もMU!!のみなさんでコーディネートされたんですよね。

奥村 当日の朝からつくりました。でも早かったですよ。うしろの書き割りをつくって、新聞紙で小道具をつくって、3人であっというまでしたよ。午前中にはできました。それでブルーシートを敷いて、近所の製材屋で大量におがくずを買ってきて砂浜にしたんです。服は当時の日劇ダンシングチームから借りてきました。

──ないものは自分たちでつくるっていうのがあたりまえの時代だったんでしょうね。いまなら画像データをネットから拾ってきてプリントアウトするという発想になると思うんです。おそらくそこにはデジタルテクノロジーの発展も影響していると思いますが、1980年代以降、デザインに訪れたテクノロジーの変遷について奥村さんはどのようにお考えですか。たとえば80年代末にはマッキントッシュによるDTPが出版業界にも普及していきます。

奥村 マッキントッシュはいち早くとりいれました。戸田ツトムさんと僕と、ID(インダストリアルデザイン)の川崎和男さん、この三者が最初期にマッキントッシュをつかって制作をはじめたと思います。マックを導入したきっかけは、新しいテクノロジーを試してみたいというところと、グラフィックにデジタルという概念をとりいれていく、そのなかでものをつくっていくという考え方に興味をおぼえたのが大きかったんです。

──話が前後しますが、細野さんの『SFX』(1984年)はマッキントッシュの前の時代にあたりますよね。

奥村 10年ほど前ですね。音はビジュアルにくらべて格段に情報量が少ないので、まず音楽でデジタル化がはじまり、10年遅れてグラフィックがPCでできるという時代が、80年代の後半にようやく到来したということだと思います。

──そう考えると、逆説的に『SFX』のデザインの先進性がうきぼりになると思います。あのジャケットではアナログな手法でデジタルという概念をみごとにビジュアライズされていますが、1980年代末から90年代初頭に実際の仕事でマックを使用されるさい、想定していたことと現実のちがいを感じたことはありましたか。

奥村 いちばん感じたのは情報量のなさです。その点ではストレスはありましたが、それも急速な進化をとげてフォトショップが出てきて、そこからいまの状況が生まれます。80年代末にDTPがはじまり、90年代末には出版の分野でも主流になってくる、その10年の飛躍は大きいですが、当時からデジタルには可能性を感じていました。当時は情報量こそ少なかったですが、技術的な側面での限界を感じたことはありません。むしろ現在のようなデジタルの世代がいずれ到来するという予感のほうが大きかったですね。

──そのデジタル全盛時代が到来したいま、桑沢でデザインを学びたいというみなさんに向けて、奥村さんから声をかけるとしたら、どのような言葉になりますか。

奥村 学生のときはいろいろなものを吸収するしかないということでしょうか。吸収するものによってだんだん自分がつくられていく。そこから進む道が生まれてくるような気がします。僕が桑沢に通っていた1960年代末は世相的にも騒がしい時代で、情報がかぎられていましたが、そのぶんひとつひとつが重力をもっていて、いまみたいにネットで「いいね」で終わっちゃうようなものじゃなかったんです。ものや出来事の存在感、そういうものにふれられたのは大きかったかもしれません。

──奥村さんにとって「デザインする」ということを再定義していただくとしたら、どうなりますでしょう。

奥村 その時点の発想につきますよね。つねに白紙の状態に戻してつくりこんでいく。まずなにもひきずらないで真っ白なところからテーマをつくっていくというものが、わりと自分のなかでは大きいですよね。

(2024年3月1日 TSTJにて / 撮影:塩田正幸)

中沢新一
(なかざわ・しんいち 1950〜)現代思想、文化人類学、民俗学、歴史や自然科学にまたがる広汎な知見を総合した知のあり方を提唱する思想家、人類学者。『森のバロック』『フィロソフィア・ヤポニカ』『熊楠の星の時間』など著書多数。1983年のデビュー作『チベットのモーツァルト』(せりか書房)は奥村靫正が装丁を手がけた。
葛西薫
(かさい・かおる 1949〜)アートディレクター。1973年にサン・アド入社。サントリーウーロン茶、サントリーモルツなどの広告キャンペーンを手がけた。
戸田ツトム
(とだ・つとむ 1951〜2020)グラフィックデザイナー。1970年代初頭、桑沢デザイン研究所卒業後、工作舎に入社。1980年代以降は「GS」や「WAVE」などの雑誌、ドゥルーズ+ガタリの『アンチ・オイディプス』『千のプラトー』などの思想書、鈴木一誌とのデザイン批評詩『季刊d/SIGN』などを手がけた。
秋山道男
(あきやま・みちお 1948〜2018)スーパーエディター。19歳で若松孝二の若松プロダクションに入社し『天使の恍惚』(1972年)などに出演。西友の小学生向けPR誌『熱中なんでもブック』(1979年)、黒塗りの小泉今日子が表紙に登場する『活人』(1985年)の編集を担当し、無印良品や伊勢丹の新店舗のコンセプトづくりなどにかかわった。
川崎和男
(かわさき・かずお 1949〜)工業デザイン、プロダクトデザイン分野で活動するデザインディレクター。東芝をへて、1979年に川崎和男デザイン室を設立。主な作品に眼鏡「Kazuo Kawasaki」コレクション、人工心臓(サードデベロップメントモデル「TAH」)など。
Profile
奥村靫正(おくむら・ゆきまさ)
1947年愛知県生まれ。1969年桑沢デザイン研究所卒業後、1970年に眞鍋立彦、中山泰らのWORKSHOP MU!!に参加。はっぴいえんど、細野晴臣、大瀧詠一、サディスティック・ミカ・バンドなどのジャケットデザインを制作。1977年、The Studio Tokyo, Japan.(現TSTJ Inc.)設立後はYMO、山下達郎、佐野元春、戸川純ユニット、チェッカーズなどのジャケットデザイン、アートディレクションを担当。広告、装丁、ICやロゴデザインなど、分野を問わず、革新的な作品を多数発表。1980年代以降はDTPを作風にとりいれるとともに、幼少期に学んだ日本画の技法をとりいれた作品で異彩を放った。ADC賞、グッドデザイン賞ほか受賞多数。女子美術大学客員教授、神戸芸術工科大学客員教授。1994年に桑沢賞を受賞。